「主が与える良い地」

2023年2月12日説教  申命記 11章10~17節

        

主の御名を賛美します。

1、エジプトの地

今日の聖書箇所を読んで気付くことは、「地」という言葉が繰り返されていることです。「大地」を含めると8回使われています。「地」という言葉から思い浮かぶことは、聖書の一番初めの創世記1章1節の、「初めに神は天と地を創造された。」という御言葉です。

聖書は二項対立と言われる、天と地のような分かり易い対照的なものを二つ並べて比べます。26節からの小見出しにある、祝福と呪いのようなものです。天と地と言いますと、天は神のおられるところ、地は人の住むところです。人の住む地はどのようなところでしょうか。

創世記1、2章では、地も神が造られたものであり、極めて良いものでした。しかし創世記3章で初めの人であるアダムとエバが、神が食べてはいけないと禁じられた善悪の知識の実を食べる罪を犯してしまいました。その結果、創世記3:17で、土(地)は呪われてしまいました。

そして人は生涯にわたり苦しんで食べ物を得ることになりました。前回の6節では、地が口を開き、モーセに反逆したダタンとアビラムとその家族も天幕も呑み込みました。イスラエルが脱出して来たエジプトもそのような地です。

エジプトの年間降水量は30~50mmで、日本は1700mmですから日本の約40分の1です。エジプトにはナイル川があるではないかと思われるかも知れません。しかし水があるのはナイル川の周辺とデルタ地帯だけで、国土の95%以上は砂漠で水が乏しい国です。

エジプトは水資源の95%をナイル川に頼っています。しかしナイル川の上流のエチオピアが2011年から大エチオピア・ルネサンス・ダムを作り始めて今も大問題になっています。

そのようなエジプトですから、イスラエルはエジプトでは自分で種を蒔く必要がありました。そして野菜畑のようにあなたの足で水をやらなければなりませんでした。足で水をやるというのはどういうことでしょうか。エジプトはナイル川の水を使って灌漑がされていました。

用水路によって畑の近くまで水は来ていましたが、水を畑に汲み上げるためには、足で水車を回していたようです。水を手に入れるためには額に汗して努力をする必要がありました。それは先週のサマリヤの女のように深い井戸から水を汲み上げるのと同じです。

しかし人間も野菜も水無しでは生きて行けませんので、水を手に入れるためには働かなければなりません。それがエジプトの地です。

2、主が与える良い地

しかしイスラエルが渡って行って所有しようとしている地は、エジプトの地とは違います。山や谷のある地で、天の雨で潤っています。エジプトでは地の水を下から人力で汲み上げます。しかし、主が与える良い地では、神が天から与えてくださる上からの雨で潤っています。

それは人間的な努力によって地の水を手に入れるのではなく、神の恵みによって天の水が与えられるということです。これは大きな違いです。日本の降水量は世界平均880mmの約2倍です。そのために水の出る地域は、それと分かるように地名に水に関する漢字が付いていて、避けられたりする傾向があります。

しかし砂漠等の地域では水は、正しく命の水です。また天からの雨が山に降ると、山を通して良い水になります。谷は水が集まる場所です。また先週の個所では水は聖霊の象徴とありましたので、天の雨で潤っているというのは霊的に満ちた祝福された地と言えます。

そのことを12節では、「あなたの神、主が心にかけ、あなたの神、主が、年の初めから年の終わりまで、常に目を注がれている地である。」と言います。主が共にいてくださる地です。

但し、神の恵みを受け続けるには条件があります。それは今日あなたがたに命じる私の戒めによく聞き従うことです。聞き従うということは、まず良く聞いて、そして聞くだけでなく実際に従うことです。私の戒めとは具体的には、「あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕える」ことです。

これはどこかで聞いたことのある言葉です。これはマタイ22:37で、律法の中でどの戒めが最も重要かと問われた時に、主イエスが答えられた、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」の通りです。愛するとは愛する人の言うことを守ることです。

そして主を愛するなら約束として、主はあなたがたの地に、秋の雨や春の雨など、必要な時期に雨を降らせてくださいます。「秋の雨と春の雨」は意訳で、原語の直訳は新改訳の「初めの雨と後の雨」です。パレスチナははっきりと10月から3月頃の雨期とそれ以外の乾期に分かれています。日本の梅雨のようなものです。

初めの雨は雨期の初めの10月から11月に降り始める秋の雨で、この時に大麦や小麦の種蒔きをして農耕作業が始まります。後の雨は雨期の終りの3月頃の春に降る雨で、大麦、小麦等の穀物や葡萄、オリーブ等に必要であると共に、家畜のための野の草を生えさせます。

これらのことからパレスチナの気候や農耕事情は分かります。しかし聖書は農業のノウハウを教えるものではなく、霊の糧を与えるものです。この聖書個所が私たちに語る霊的な意味はどのようなことなのでしょうか。

3、まず神の国と神の義を

主イエスがマタイ6:31~33で、その意味を教えてくださっていますのでお読みいたします。私たちクリスチャン、またキリスト教会は、まず神の国と神の義を求め、それによって与えられる神の恵みの中を生きるものです。まず神の国と神の義を求め、そこで与えられる恵みと祝福を体験して行きたいものです。

クリスチャンは第一に主を愛することによって、必要な時期に神が天から雨を降らせ、植物を成長させてくださる恵みの地に生きるものです。しかし私たち罪深い人間は、罪の象徴であるエジプトの習慣から中々、抜け出し難いものです。

キリスト教会の中でも、時々、エジプトのアスワン・ハイ・ダムを造るような計画を耳にすることがあります。アスワン・ハイ・ダムはエジプトで1970年に完成したダムです。ダムを造っておけば水を貯水することが出来ますし、その後の用水路の配置を考えたりすることは、この世的には現実的な対応策かも知れません。

しかしそのような計画は誰が設計したとか、誰が水を汲み上げるために水車を一生懸命に足で漕いだとか、誰が頑張ったとかといった人間の努力に焦点を当てるものです。それは人間の足のにおいのするもので、キリストの香りではありません。そのような計画はエジプトの地でのことです。

私たちはエジプト教会ではなくキリスト教会です。決して人間の努力を否定しているのではありません。ただキリスト教会が第一に求めることは主を愛し、主の恵みと祝福を体験し、その中で与えられる自分の役割を担うものです。主を愛し恵みを体験するよりも先に、まず人の手でダムを造って人力で水車を足で漕ごうとするのはキリスト教会のすることではありません。

キリスト教会のあるべき姿というのは具体的にはどのようなものなのでしょうか。ある教会員が、「この教会は良いですね」と言って、「百万人の福音」の2021年7月号の記事を見せてくれました。「人がとどまる教会」のテーマで「おざく台キリスト教会」の紹介ですが、良い記事だと思いますので、白板に掲示してありますのでご覧ください。

また念のためにお話ししますが、現在のエジプトという国を否定しているのではありません。ただこの当時は、エジプトは罪の象徴であったということですので、誤解の無きようにお願いいたします。

4、他の神々に気をつけなさい

主が与える良い地で、イスラエルは穀物、新しいぶどう酒、新しいオリーブ油を収穫して、家畜も食べて満足するでしょう。人は満足するときにどうなり易いでしょうか。得てして心に隙が出来て誘惑に陥り易いものです。人生の3つの坂の真坂という坂が待ち受けています。

「心変わりして道を外れ、他の神々に仕え、それにひれ伏さないように気をつけなさい。さもないと、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がる。」と言います。そのようなことはイスラエルに過去にあったでしょうか。ありました。

イスラエルはバシャンの王オグとヘシュボンの王シホンのオグ・シホン・コンビに勝って「行け行け、ドンドン」の時に、民数記25章でモアブの娘たちと淫らなことをして彼女たちの神々にひれ伏しました。主は怒られ、疫病で2万4千人が死にました。

人間は愚かなもので、上手く行き始めると直ぐに調子に乗って、神から目を離して、神でないものを金の子牛の偶像のようにして、ひれ伏してしまい易いものです。そして、裁きを招くことになりますので本当に要注意です。

礼拝説教の例として取り上げるのに果たして相応しいか疑問も覚えますが、この聖書箇所を読んでいて思い浮かんだ分かり易い例をお話させていただきます。ご存じだと思いますが、紀州のドンファンと呼ばれていた人がいました。

中学卒業後から働き始めて色々な事業を手掛けて資産を築きましたので叩き上げの努力を重ねて来たのだと思います。5年前には55歳年下の女性と結婚していましたが、そのような思いは誰にでもある程度は分かるものだと思います。しかし犯人は確定していませんが、結婚からわずか3か月後に急性覚醒剤中毒で殺されてしまったようです。

憐れむべきことではありますが、まさかそんなことが起きるなどとは言うよりも、やはりそのような結末になったかと思われた人の方が多いように思います。人の道も外れるとそれなりの結果を招くものだということを教えられます。

主が与える良い地でも、主の道を外れ、他の神々に仕えるなら、主は天を閉ざされます。そのため、恵みの雨は降らず、水が無ければ植物は育ちませんので、大地は実りをもたらしません。その結果、あなたがたはたちまち、主が与えようとしている良い地であるにも関わらず、滅び去ることになります。

だからそのようにならないためには、自然の雨に頼るのではなく、ダムを造っておいて水を溜めておけば良いということではありません。「主は天を閉ざされる」というのは、単に雨が降らないというだけのことではありません。それは人間との関係を断絶し、恵みを一切、与えられずに乾き切って、滅ぼされます。

初めに聖書は二項対立とお話しました。一つ目の選択は、罪のエジプトの地の習慣に従って人力に頼って生きるか、主の恵みの降り注ぐ祝福の地で生きるかです。そして二つ目の選択は、主が与える良い地で、主を愛し戒めを守り続け、主の祝福の中で満足して生きて行くか、心変わりして良い地から滅び去るかです。

これは明らかであり、選択肢にすら成り得ないものです。明らかに主は私たちを罪のエジプトから救い出し、主の与える良い地で満足して長く生きるために、私たちの身代わりとして御子イエス・キリストを十字架に付けられました。そして私たちが正しい生き方をするために、私たちに聖霊を遣わして導いてくださっています。

罪のエジプトに帰ろうとするのではなく、聖霊の導きに従って、主が与えてくださる乳と蜜の流れる良い地のルールに従って、主を愛し戒めを守り、主の恵みと祝福の道を歩ませていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この世の目に見える人力に頼るエジプトの習慣は分かり易いものです。しかしクリスチャンは主の恵みによって救われ、主が与える良い地で、主の恵みと祝福の中を生きるものです。

しかし私たち人間は、少し順調になると直ぐに道を外れ、この世の偶像に仕えてしまう弱いものです。しかしあなたは主イエスの十字架により私たちを救い、聖霊の力によって導いてくださいますから有難うございます。

私たちが右にも左にも逸れずに、主が与える良い地に留まり続けることが出来ますよう、聖霊の導きに従えますようにお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。