「あなたの家に泊まることにしている」

2023年3月19日(日)礼拝説教 
ルカによる福音書 第19章1節~10節  亀田威牧師(大網キリスト教会)

       

【主イエスと出会ったザアカイ】

いつも大網キリスト教会のためにお祈りをありがとうございます。皆さまのお祈りに支えられて、大網教会の歩みと私たちの働きも守られました。今日は皆さまと共に御言葉を聴かせていただき、主を共に礼拝する恵みが与えられていることを感謝しております。

 今日共に聴きましたこの聖書箇所にはザアカイという人が登場してまいります。ザアカイは徴税人という税金を集める仕事をしておりました。イスラエルで徴税人という仕事は町の人々から好かれない仕事でありました。当時のイスラエルはローマに支配されておりました。徴税人はローマに納める税金を集める仕事でした。また、彼らは本来の税金額に上乗せして徴収し、その上乗せ分を不正に自分のものとしてしまうことが多かったようです。

 ザアカイは人々から好かれていなかったことでしょう。ザアカイには家に泊まりに来てくれるような友は誰もおりませんでした。孤独に過ごしていたことでしょう。その男に主イエスが出会われ、そして、声をかけられました。それが「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」という主の御声です。この主の御言葉に導かれ、ザアカイは自分の家にイエス様を招きます。主との出会いによって彼の人生は変えられていきます。

 ザアカイはイエス様に「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します。」と言いました。主イエスとの出会いによってザアカイは人々からお金を奪い取る者から分け与えるもの、施す者へと変えられました。

【救いの証し】

私はこのザアカイの話を読むたびに心動かされる思いがいたします。私もザアカイのように孤独でありました。そして、主イエスが私とも出会ってくださったことをこのザアカイの物語を通して思わされます。私が初めて教会に足を踏み入れたのは今から21年前の22歳、大学生の頃、ある人の葬儀でした。その方の葬儀が教会で行われました。イエス様の肖像画が掲げられていました。私はそのイエス様の肖像画に向かって「なぜ、あなたはこんな可哀想なことをするのですか。」と心の中で聞いていました。帰宅後、両親に置きどころのない私の気持ちをぶつけました。「こんなことが許されるのなら、僕はそんな神様は信じない」と言ったのを覚えています。

 私はいつの頃からか、孤独感や空しさを感じながら生きてきたところがありました。誰に対しても「どうせ裏切るんだろう」と思いながら接していました。特に父親に対しては冷たい感情を抱いていました。私は言葉で、そして、態度で父を傷つけていました。心の中では誰のことも信じられませんでした。誰のことも愛していませんでした。自分のことも愛していませんでした。しかし、そうやって一生生きていこうとしていました。

 その後、大学院に進学し、塾講師として3年勤めた後、社会福祉法人に転職し、そこで妻と出会いました。何度か会ううちに惹かれていき、お付き合いしてもらえませんかと告白しました。すると妻から「私にとって交際と結婚は切り離せないことです。結婚願望はありますか」と聞かれました。私は「はい。結婚願望はあります。結婚の条件は何かありますか」と聞くと、妻は結婚の第2条件と第3条件を教えてくれました。ですが、結婚の第1条件については言いづらそうに中々教えてくれませんでした。そこで私は「第一条件を1番知りたいので教えてください」と何度も頼み込むと、やっと教えてくれました。こう言われました。「私はクリスチャンであることは前にも話しましたが、礼拝に出席することをとても大切にしています。結婚相手とは日曜日も一緒に過ごしたいから、一緒に礼拝に出席できる人と結婚したいのです。」私はそれを聞いて、「神様を信じていない自分が礼拝に出席して良いのですか?」と聞きました。すると妻は「神様を信じていない人も教会は歓迎します」と教えてくれましたから、「まず教会やクリスチャンを知るために礼拝に出席させて欲しい」と伝えました。

これは後に妻から教えてもらったことですが、結婚の第1条件を「クリスチャン」と導かれて祈っていたのですがクリスチャンではない私に対して自分から言う勇気は無かったそうです。私がしつこく聞いたから、答えることが出来たとのことです。あとになって、聖霊様がその場を支配して働いてくださったのだと妻は気づかされたそうです。私から礼拝に出席させて欲しいと言われた彼女には迷いがありました。それは交際をする前の段階で自分の教会に招いて良いのかという迷いです。彼女は導きを求めて1週間祈り、その間は音信不通となりました。彼女は交際する決心に導かれるまでは距離を保つことが必要と導かれて、母教会である東京の八王子市にあります陣馬高原キリスト教会とは違う教会を3つ紹介してくれました。その1つが私の住んでいたところに比較的近い、西落合キリスト教会でした。

 教会のホームページを調べ、一人で礼拝に出席しました。「礼拝はクリスチャンにとって大切なものだから、失礼があってはいけない」と思い、受付の方に「初めてなんです。」と伝えました。すると受付の方は会堂の2列目に案内してくれました。礼拝が始まると、隣にいた男性の方がどの箇所を見ているのか一つひとつ丁寧に教えてくださいました。礼拝が終わった後は気持ちがリセットされたような、落ち着いたような気持ちになりました。「来週もまた教会に来よう」そう思っていました。そして、毎週、教会に行くようになりました。

ある週のメッセージで、心の一隅ということが語られました。心の一隅とはクリスチャンで哲学者である森有正という人が書物の中で語ったことです。森が書いた文章をご紹介いたします。

「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅をもっています。醜い考えがありますし、恥がありますし、他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあります。そういう場所で、アブラハムは神様にお目にかかっているし、そこでしか、人間には神様にお目にかかる場所はないのではないでしょうか。人は誰はばからず語ることのできる観念や思想や道徳といったところでは、真に神に会うことができないのです。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人は神に会うことはできないのです」

それまで抱えていた表現しようのない孤独感や空しさに、光が差すような衝撃を覚えました。孤独や空しさでふさぎこんでいた自分に、ずっとイエス様は手を差し伸べてくださっていた、そして、10年前の同僚の葬儀で「そんな神様は信じない」と言っていた自分も、心の底では神様を求めていたということに気付かされました。神様は孤独にふさぎ込んでいた私のことも救ってくださるために妻を遣わしてくださったのだと思いました。

妻は毎日、「亀田威さんと交際すること、結婚することが御心ならば、彼を救ってください。あなたの御心を示してください。」と祈っていたそうです。2か月間、告白の返事も保留にして、魂の救いのために祈ってくれていたそうです。別々の教会で礼拝を与かりながらも毎週喜んで教会へと通っている私を見て、この人を神様は本当に救おうとなさっているのではないかと感じ、交際する決心へと導かれたそうです。

交際が始まってからの私は「彼女と仮に別れるようなことがあったとしても、私は教会に通い続けるのかどうか」について随分自問自答するようになりました。神さまを信じ、クリスチャンとして生きることと、恋愛についてごっちゃにしてはならない、もし、彼女を喜ばせるために洗礼を受けるのであれば、それは長続きしないと感じていました。「もしも彼女と別れるようなことがあったとしても教会に通う」という思いが与えられていきました。そこで、西落合キリスト教会の安井聖先生と洗礼に向けた学びが始まりました。そして、結婚後の生活を八王子市に移すことが決定してからは、洗礼に向けた学びを当時、陣馬高原キリスト教会におられた安井巌先生に引き継いで頂きました。

ある日の学びにおいて安井巌先生から「孤独感を感じていた原因は何か」と問われた時、私は「分かりません。」と答えました。それまでの私は孤独感や空しさを感じていたことの原因を自分以外に求めていました。けれども、牧師との対話で気づかされたことは、その原因は自分であるということでした。初めて、神様の愛に背いていた私自身の罪が、孤独感や空しさの原因であったということに向き合いました。私の罪のために、そして、父や他の人を傷つけることで傷んでいた私のためにイエス様は十字架に架かってくださったのです。この私の罪も十字架によって贖われたのだという気付きが与えられ、悔い改めました。そして、救いの御言葉が与えられました。

その御言葉はヨハネの手紙 一 第1章9節です。「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」

孤独だった私の側にもいつもイエス様がいてくださる、イエス様は私のことを愛してくださっている、このことが私にとっての喜びとなりました。イエス様は、さらに恵みを用意してくださいました。イエス様から愛されていることを通して私は家族から愛されているということに初めて気づくことが出来ました。

救いの御言葉を頂く少し前のことです。初めて私の両親と妻で食事をしたと時のことです。私は妻に父はぶっきらぼうな人だから、印象が良くないかもしれないけど気にしないでねと伝えてありました。食事後、私は妻に、「ぶっきらぼうな父でごめんね。」と言いました。ですが、妻の答えは私の予想とは違ったものでした、妻は私にこう言ってくれました。「あなたのお父さんはとても優しい人だと思うよ。」妻は既に父の私に対する愛に気付いていたようでした。ですが、その時の私はまだ妻の言っていることの本当の意味が分かっていなかったように思います。

父は私のことをいつも見てくれていました。父は教会に毎週通うようになった私を見て、「威は教会に行って、良い方向に変わった。」と声をかけてくれました。父は私に起こっている変化を敏感に感じ取ってくれていました。なぜでしょうか。それは父が私のことを愛してくれているからです。私のことをいつも見てくれているからです。父は私が洗礼を受けることを知って、洗礼の意味を調べてくれて、「お前は神様の子になるのだろう。父さんは寂しい。」と言ってくれました。両親に感謝などしたことがなかった私は、イエス様の愛によって目が開かれていきました。ずっと注がれていたイエス様の愛に、そして家族から受けていた愛にも目が開かれていきました。両親に感謝をしたことがなかった私が、父と母への感謝の思いに溢れるようになりました。今から11年前の2012年6月10日、洗礼式の日の朝に、両親に「ありがとう。父さんと母さんの子供で良かった。」と直接感謝の気持ちを伝えてから家を出、受洗の恵みに与りました。父も、洗礼式に立ち会ってくれました。

孤独だったザアカイが主イエスとの出会いによって変えられたように、私も主イエスが出会ってくださったことによって変えられたのであります。孤独で人を信じることが出来なかった自分が信じる者へと変えられました。この私のところにも主イエスが来てくださったからです。主イエスがザアカイに御声をかけられたように、私にも「あなたの家に泊まることにしている」と御声をかけてくださったからです。

【家とは自分の本当の姿を見せる場所】

ここでイエス様が言われた「家」とはどのような場所でありましょうか。家、そこは本当の自分の姿を見せる場所ではないでしょうか。本当の自分、正直な自分の姿がそのままに出ているのが「家」です。

7節には「罪深い男のところに行って宿をとった」とあります。罪深い男とはザアカイのことです。この御言葉の意味は罪人であるザアカイのところに主イエスがお泊りになられたということです。聖書が語る罪とは、神が共におられるのに、そのことを見失ってしまうことです。ザアカイは神に心を閉ざし、自分の力で生きようとしておりました。財を得ることで、孤独を紛らわそうとする、ですが、どこかに虚しさを感じていたことでありましょう。神に心を閉ざし、神が共におられることを忘れる時、人は本当のところ幸せに生きられないのではないでしょうか。

同時に罪人であるのはザアカイだけではありません。私もかつでは孤独や虚しさを感じておりました。その孤独や虚しさをもたらしたのは罪です。私も罪人です。今日共に聴いておりますこのザアカイの姿は私の姿です。ですから、主イエスがザアカイにかけられた「あなたの家に泊まることにしている」という御言葉はザアカイにも、そして、私たちにもかけられている御言葉です。

【泊まることにしているということの意味】

主イエスが言われた「泊まることにしている」という御言葉は「泊まらなければならない」と訳してもよいほどに強い意味を持っています。そして、この「泊まる」という言葉には「留まる」とか「離れないようにしている」という意味があります。ですから、ここで主が言われている「あなたの家に泊まることにしている」という主イエスの言葉は「あなたの元に私は留まる」、「あなたから私は決して離れない」という主イエスの強い決意が響いてくる御言葉であります。「あなたの元に私は留まる」、「あなたから私は決して離れない」。かつての私は主イエスの御声を聴こうとせず、背を向けている罪人でした。ですが、主は罪人のままの私のところに強い決意をもって訪ねてくださり、留まってくださっているのです。私は「そんな神様なんて信じない」と言いました。私自身のありのままの心、私自身の「家」は、神を愛するよりも神を憎む心、神を憎む「家」でした。ですが、そういう私にそれでもあなたのありのままの家、ありのままの心をわたしは決して離れないと語ってくださっています。誰にも見せることの出来ない私の心、私たちの心に主イエスがおられないと、人間は滅びるばかりだからです。父なる神と御子イエス・キリストの強い決意が最も現れるのは十字架です。

【主をお迎えする喜び】

主は私たち一人ひとりを今も、そして、毎日、訪ねてくださって、私たちの誰にも見せたくないような心に、家に留まってくださいます。主は今日も私たちに語っておられます。「あなたがわたしのことをどう思っても、わたしはあなたのところに留まり続ける」「あなたを救うという父なる神の強い意志のためにわたしは十字架へと歩む」。「あなたの家に泊まらなければならない」。この主の語りかけに今日も心開き、そして、お一人おひとりの「私の家」、主イエスにしかお見せ出来ないありのままの心に喜んでお迎えしたいと心から願います。「主よ、こんな私の家で申し訳ありませんが、喜んでお迎えします」とお応えしようではありませんか。