「主を畏れ、祝福される」

2023年5月21日礼拝説教  
申命記 14章22~29節

        

主の御名を賛美します。歌舞伎俳優の市川猿之助さんの事件が連日、報道されていますが、とても残念な内容です。歌舞伎のことを私は良く知りませんが、猿之助さんは歌舞伎界に限らずとても活躍されている人とのことです。人は順調に見える時こそ隙が出来易く、真坂という罠に陥らないように気をつけることを教えられます。

1、収穫の十分の一

イスラエルは神である主に、恵みによって選ばれて、主の聖なる民、宝の民とされました。そして主の聖なる民、宝の民として相応しく生きるために、初めに食物の規定が与えられました。今日は二つ目の規定として収穫の十分の一の規定です。

初めに主は、「あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得るすべての収穫から、必ず十分の一を取り分けなさい。」と命じます。「取り分けなさい」という言葉は、「献げなさい」という意味です。これは現代でも十分の一献金と言われています。十分の一献金ということでは時々、質問を受けることがあります。

また私たちのホーリネス教団では新しい任命制度が本格的にスタートしました。その一つとして牧師が教会に遣わされて初めは3年経った翌年に、またそれ以後は5年毎に教会の役員と牧師が教会についての話合いを行い、そこに教区長も必ず立ち会うことになりました。

今年はいくつかの教会で立ち会うのですが、これはある教会でのお話です。そこでは私にも色々な質問が来ましたが、十分の一献金についても聞かれました。それは十分の一献金は何を基準としての十分の一なのかという質問でした。給料等を貰っている人は、給料の額面の十分の一なのか、それとも給料からは税金等を引かれるので、手取りの十分の一で良いのかという質問でした。

手取りの十分の一というのが一般的な考え方だと思いますので、それで良いと思いますと答えました。しかし今日の聖書箇所はどのように言っているでしょうか。収穫の十分の一とだけ言っています。経費等を差し引いてとは言っていません。

何を基準とするというのはそれ程の大きな問題ではありません。もっと大切なことは、Ⅱコリント9:7の、「各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」ということです。大切なのは喜んで献げることです。

その教会で話し合っている時に他の人から、ではⅡコリント9:6の、「惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。」と献金額の関係はどういうことですかと質問されました。豊かに蒔く者というのは献金の額と比例して、献金額が多いと豊かに蒔く者で、献金額が少ないと惜しんで僅かに蒔く者という意味とは限りません。

マルコ12:41~44で主イエスは、レプトン銅貨2枚を献金したやもめを誰よりもたくさん入れたと言われました。献金は自分自身を献げる献身を目に見えるかたちで表すものですので、金額よりも先に自分自身の献身の姿勢が問われることです。

聖書は手取りの十分の一とは言っていませんので、それよりも多く献げることを自分で決めることも出来ますし、色々な事情で手取りの十分の一を献げることの難しい時期もあるかも知れません。それぞれの事情に応じて各自が祈りの中で決めることだと思います。

2、主を畏れる

取り分けた収穫の十分の一はどうするのでしょうか。「あなたの神、主の前、すなわち主がその名を置くために選ぶ場所で、あなたの穀物や新しいぶどう酒、新しいオリーブ油の十分の一と、牛や羊の初子を食べなさい。」と命じます。日本で言うと、毎年10月17日に五穀豊穣を感謝して伊勢神宮で行われる神嘗祭に当たるでしょうか。

ここで気付いたことはワインのボジョレー・ヌーヴォーです。私は基本的にアルコールは飲みませんが、英国にいた時に教会の交わりでボジョレー・ヌーヴォーを持って来た人がいて初めて飲みました。ボジョレー・ヌーヴォーは、フランスのボジョレー地区で、その年に収穫した葡萄から作ったワインで、ヌーヴォーは新しいという意味です。

ボジョレー・ヌーヴォーの解禁日は毎年11月の第3木曜日ですので、今年は11月16日です。ワインのことは良く知りませんが、年数が経った物の方が熟成されて味が良いと言われます。それなのに、なぜその年に作ったボジョレー・ヌーヴォーが騒ぎになるのだろうと思っていました。日本でも話題になります。新しいぶどう酒を飲むことの聖書的な理由が今日の聖書箇所にあるということです。

その年の収穫物を取り分けて、食べたり飲んだりする目的は、主を畏れることを学ぶためです。その年に神から与えられた収穫の十分の一を神に献げて、その一部を感謝していただいて楽しみます。それは収穫を与えてくださったのは神であることを覚えて畏れることです。神無しには収穫が無かったことを心に留めて謙遜になるためです。

これは自然の影響を受ける農業や牧畜を行っている人だけに限ったことではありません。現代では農業や牧畜とは関係のない仕事をしている人の方が多くいます。しかしどんな人でもその年を生かされて、生活の糧を主から与えられていることを感謝して、主を畏れて謙遜になることを学ぶ必要があります。それをいつ行うのかということは16章の三大祝祭日になります。

3、銀に換える

しかし主がその名を置くために選ぶ場所が近くなら良いのですが、遠く離れて、その道のりが長すぎて、献げ物を持っていくことができないことが有り得ます。農産物は重たいですし、家畜の初子は長い道のりを移動させるのは難しいでしょう。

そのような場合には、献げ物を銀に換えて、その銀を携えて、あなたの神、主が選ぶ場所に向かいなさいと言います。確かに銀であれば、持って行くのに嵩張りませんし、それ程には重たくないでしょう。現代でも旅行等に行く時に万が一に備えて荷物を沢山持って行く人もいますが、必要な物は何でも現地で買えば良いと考える人もいます。

そして主が名を置く場所に着いたら、その銀であなたの望むもの、牛でも羊でもぶどう酒でも麦の酒でも、何でもあなたの好きなものを求め、あなたの神、主の前で食べ、あなたも家族も楽しみなさいと言います。これは何でも現物に頼るのではなくて、貨幣を使用した方が便利であることを勧める、貨幣経済の知恵、勧めなのでしょうか。そういう部分もあるのかも知れません。

しかし先週もお話しましたが、聖書は基本的に物質的なことを教えるものではなくて、そこに込められた霊的なことを教えるものです。この箇所の霊的な教えはどのようなことなのでしょうか。

マラキ3:10で主は、「十分の一の献げ物をすべて貯蔵庫に運び入れ私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよ。万軍の主は言われる。必ず、私はあなたがたのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。」と言われます。

今日の個所で銀に換えるのは主が名を置く場所に行くためですから、銀に換えている期間は短いかも知れません。しかし銀を積んで置く場所についてマタイ6:19、20は、「地上に宝を積んではならない。宝は天に積みなさい。」と言います。

銀を天に積むことによって、あなたの望むものは何でも与えられるので楽しみなさい、ということが霊的な意味であるように感じます。また主が名を置く場所で食べて飲んで楽しむのは家族だけではありません。あなたの町の中にいるレビ人も一緒にです。レビ人の相続地は主ご自身であって、この世の割り当て地や相続地がないからです。

4、町に中に置く十分の一

毎年、収穫の十分の一を取り分けますが、三年の終りごとに、その年の収穫の十分の一をすべて取り分け、町の中に置きます。これはどういうことでしょうか。三年目は、主が名を置く場所には持って行かないで、それぞれの町の中に置くと考えられます。

そしてそれらはイスラエルの12部族のような割り当て地や相続地のないレビ人や、あなたの町の中にいる寄留者、孤児や寡婦がやって来て食べ、満足するようにしなさい、と命じます。

30年以上前の話ですが、私が英国に行って感じたことは、チャリティーやボランティア等の慈善活動がとても活発だったことです。教会が行っているものや、キリスト教団体が行っているものも多くありました。それによって私はキリスト教に対して良いイメージを持ったように思います。

これらの十分の一を取り分けることは、主を常に畏れることを学ぶためです。それは収穫を与えてくださる主ご自身を畏れると共に、全能の主の言に従うことによって主を畏れるという意味があります。憐れみ深い主は、主ご自身の御用に当たるレビ人を覚えて顧みられ、また立場の弱い寄留者、孤児、寡婦等に目を留められます。

19世紀にフランスで生まれた言葉に、ノブレス・オブリージュというものがあります。ノブレス、貴族等の社会的地位の高い人は相応の義務を負うという意味です。それは恵まれた立場に置かれた者は自分だけの満足に甘んじるのではなく、周りの人に対する責任や役割を果たすことです。

米国では5月12日から移民政策が変わって、中南米の人たちが米国への移住を求めて国境に殺到して色々な混乱が生じているようです。移民を受け入れるということは大変なことだと思いますが、元々、移民国家である米国は、移民に対して寛容であって欲しいと願うばかりです。

5、主を畏れ、祝福される

ここでは収穫を得た人が負う、十分の一を取り分ける義務だけが書かれているのではありません。主の命令にはいつも約束が伴ないます。「そうすれば、あなたの神、主はあなたの行った手の業すべてを祝福されるであろう。」と言います。

これは命令に伴う結果としての約束と言うよりも、主は主の聖なる民、宝の民として選んだ民を祝福することを強くお望みです。結果ありきの話と言えます。

これは人間の親でも全く同じで、子どもの祝福を願わない者はいません。但し、そのためには祝福を受けるに相応しい者となるように学ぶことを願うものです。

英国や米国等では多くの資産を稼いだ人がチャリティー等に多額の献金を行うということを良く聞きます。色々な動機が噂されたりもしますが、純粋にそのような行いが更なる祝福に繋がることを知っているからではないかと思います。

これはクリスチャンを見ていてもそうであると思わされます。この方は本当に主に祝福されている人だと思う人は、主を常に畏れることを学んでいる人です。これには例外はありません。ただこの世では、主を常に畏れることを学んでいる人が、この世的な価値観だけから見ると祝福されているようには見えないこともあります。

これはヨブ記にもあるテーマですが、私たち人間の理性では計り知ることが出来ない部分もあります。主の憐れみある御心がなるように、また天で豊かな報いがあるようにと祈るばかりです。しかし主を常に畏れることを学んでいない者が主に祝福されることは、これも例外なくありません。主を常に畏れることを学ぶことが主に祝福されるための条件です。

これは30年以上前の私のうろ覚えの記憶ですので、正確ではないかも知れませんが、何となく印象に残っていることをお話します。当時、英国で英語に慣れるために良くラジオを聞いていました。英国はかつては世界を支配した大英帝国で、今でも世界の中心は英国だと思っています。

そのような英国人の大好きな議論のテーマが、「なぜ英国は衰退したのか」という問いです。色々な人たちが色々な説明を行います。産業構造の変化に英国は付いて行けなかったとか、優秀な人は皆、米国に行ってしまう等が良く言われます。

その中で、英国の有名な牧師であるジョン・ストットだったと記憶しているのですが、「かつて世界が英国の助けを必要としている時に、英国は助けなかったからだ。」と説明しました。英国は自己中心によって神の祝福を失ったということです。とても心に残る言葉でした。

人は上り坂の順調な時に、祝福されるのは神であるという最も基本的なことを忘れてしまいがちです。神に祝福される時にもいつも、主を畏れることを学び続けて行くことが、祝福され続ける条件です。神は全ての人の祝福を願われていますので、ここで全ての人にオープンで知らせています。

ただ私たちは知識だけでは従うことが出来ません。私たちの救い、祝福のためには主イエスの十字架という尊い犠牲が支払われています。そして父なる神が主イエスの名によって遣わされる聖霊がわたしたちにすべてのことを教え、ことごとく思い起こさせてくださいますから(ヨハネ14:26)、感謝なことです。聖霊の導きに従って、主を畏れ、祝福される者とさせていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは、わたしたちを主の聖なる民、宝の民とするために、御子イエス・キリストを十字架に付けられました。そしてわたしたちを祝福されることを強く望んでくださいますから有難うございます。

そして祝福されるために、主の聖なる民、宝の民として相応しく、主を常に畏れることを学ぶことを求められます。私たちは自分の力では出来ませんが、あなたがお遣わしになる聖霊に私たちが素直に従うことが出来ますようにお導きください。そして主を畏れ、祝福される者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。