「聖霊に満たされる」

2023年5月28日 礼拝説教  徒言行録 2章1~21節      

主の御名を賛美します。

1、五旬節

今日はペンテコステ、五旬祭です。ペンテコステはイエスキリストがお生まれになったクリスマス、十字架の死から甦られたイースターと並ぶ大切な記念日です。元々は小麦の初穂の収穫を祝う日です。

ペンテコステという言葉は50番目という意味のギリシャ語ペンテーコストスから来ています。それは大麦の初穂の収穫を祝う日から数えて50日目です。ペンテコステには他にも意味があります。

旧約聖書では、イスラエルがエジプトを脱出した時の過越しの祭から数えて50日目で、十戒が授けられた日と言われます。ペンテコステは小麦の初穂を献げる日であり、十戒が与えられた日です。ペンテコステはイスラエルの民が心を一つにして小麦の収穫を感謝する日です。

また、エジプトを脱出したイスラエルの民が神に従う心を一つにして十戒を授けられた日です。

新約の出来事は旧約の雛型をモデルにしますので、様々な出来事の暦が重なり合います。主イエスに付いては、過越しの祭に十字架に付けられて、三日目に甦られたイースターの復活から数えて50日目になります。何かが起こるときです。

この時に皆は何をしていたのでしょうか。1:4の「父の約束されたものを待」っていました。そして1:14の「心を合わせて、ひたすら祈りをしてい」ました。心を合わせて祈りをして父の約束を待っていました。

2、出来事

すると「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、家中に響」きました。聖書で風と神の霊は同じ言葉です。そして「炎のような舌が、分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどま」りました。炎も神がそこにおられるご臨在を表しますので、この出来事は聖霊がそこにおられることを表す出来事です。そこにいた一同は聖霊に満たされました。

この一同というのは恐らく1:13、14の人たちで皆ガリラヤの人です。服装や風貌からも明らかにガリラヤの人と分ったのでしょう。そして一同は御霊が語らせるままに、色々な他国の言葉で話しだしました。他国というのは9~11節にリストがありますが、イスラエルの周りの国々です。

この時は五旬祭ですので、エルサレムにはイスラエルの周りのあらゆる国々から信仰のあつい人々が来て滞在もしていました。ここで出来事を聞いていた人々はとても驚かされました。それはまず見るからに田舎のガリラヤ人の使徒たちが、自分たちの生まれ故郷の言葉を話しているからです。

どう見ても外国に行って言葉を身に付けてきたような人たちではありませんでした。現代でも外国を行き帰していそうな人が他の国の言葉を話しても誰も驚きません。しかし明らかに地元から離れたことがなさそうな、この地域でいうと、「何とかだっぺ」と言っているような人が流暢に他の国の言葉を話すと驚かされるものです。人々は、「一体、これはどういうことなのか」と驚き戸惑いました。

聖霊はなぜ使徒たちに他国の言葉を話させたのでしょうか。それはそこにその言葉の分る人々がいたからです。言葉の分る人々は二つのことで驚かされました。一つ目は、自分たちの生まれ故郷の言葉をガリラヤの使徒たちが流暢に話していたことです。

そして二つ目は、話している内容が、神の偉大な業を語っていたのでさらに驚かされました。ここで使徒たちが他国の言葉を語ったことは、信仰のあつい人々に、聖霊に満たされた人が行う神の力による業を示しました。

ここで使徒たちが語った他国の言葉が分る人々がいたことは大切なことです。言葉の分らない人にとっては、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」としか思えないからです。ここで使徒たちが語った言葉は異言でしょうか。異言とは普段使っている言葉とは異なる言です。

狭い意味では、ここでは実際に他国で使われている言葉を話しているので、多言奇跡として他の異言と分ける考え方もあります。しかし広い意味では異言と考えられます。

3、他国の言葉で話す

今日の中心聖句の内容は、「聖霊に満たされた人は他国の言葉で話しだす」ということです。「私は聖霊に満たされているけれど、外国語は話しません。ですから、そんなことは納得出来ません。」と言わずに聞いていただきたいと思います。

異言を語らないと聖霊のバプテスマを受けていないと考える教団教派もあるようですが、しかし今お話していることは、そのような意味ではありません。

では「聖霊に満たされた人は他国の言葉で話しだす」とはどういうことでしょうか。一つは、言語の種類として、他国の言葉で話して、他の国へ宣教するという意味があります。1:8で弟子たちは世界宣教命令が与えられています。

そして命令だけではなくて、命令を行うための力を受けると約束されています。実際に今でも世界中で多くの宣教師の方々が、力を受けて自分の母国語とは違う言葉で宣教をされています。

私も力を頂いて他国の言葉で伝道が出来る位に他国の言葉が流暢に話せたら良いなと思います。

しかし私などは自分の母国語である日本語で伝道するのでも大変な状態です。それを他国の言葉で伝道することはとても難しいことだと思います。だからこそ世界宣教は人間の力ではなくて、神によって召された人が神の力を受けて行うものです。

他国の言葉の二つ目の意味は、この世の言語の種類というよりも霊の世界の言葉という意味です。聖霊の世界の言葉とは、この世にあるイスラエル等の特定の国の言葉ではありません。聖霊が属する国とは「神の国」であって、聖霊が属する国の言葉とは、「神の国」の言葉です。

「神の国」の言葉は、聖霊に満たされた人が語る、この世の国の言葉とは違う世界の言葉です。それはどんな言葉でしょうか。まず神の国の言葉ではない、この世の国の言葉とはどんな言葉でしょうか。それは言語の種類には関係ありません。それは肉の行いの言葉であって、ガラテヤ5:19~21の言葉です。

もっと具体的にはマタイ5:22は「きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの火に投げ込まれる」と言います。

この世の肉の行いの言葉は人々が覚え易いものです。子どもたちは教えなくても直ぐに覚えてしまいます。しかしそれは「神の国を受け継ぐことはない」滅びゆく人々の言葉です。

聖霊に満たされた人が語る神の国の言葉は、霊の結ぶ実ですからガラテヤ5:22、23の言葉です。具体的にはどんな言葉でしょうか。言葉としては普通の日本語と変わらない「ありがとうございます」とか「感謝します」という言葉かもしれません。

しかし神の国の言葉としては、実際言葉に出すか、心の中だけで思うかどうかは別にして「主にあって、ありがとうございます」とか「主にあって、感謝します」ということになるでしょうか。

私たちは、ある人の話す言葉によって、その人はどの国の人か、日本、中国、韓国、フィリピン等と判断することが出来ます。

同じように、肉の行いの世界の言葉を話すか、霊の結ぶ実の言葉を話すかによって、その人が肉の行いに生きているのか、聖霊の結ぶ実に生きているのかを見分けることができます。

4、聖霊に満たされる

また11節では「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っている」とあります。「神の偉大な業を語る」とはどんな内容でしょうか。それは聖霊に満たされた人が語る、聖霊が語らせる内容です。それは具体的には17~21節のような内容です。

そこには書かれていない内容もありますが、それはすべての人の罪の贖いとして主イエス・キリストが十字架に付けられて三日目の50日前に甦られ、聖霊が降るということです。そして聖霊に満たされる人は、神の国の言葉で神の国のことを話しだすということです。

現代でも、世界中で色々な揉め事が起こっています。また私たちの身近なところでも色々なトラブルが起きます。そこで本当に心の底から人を動かして、人を変える言葉は神の国の言葉です。命を掛けた行動に人を動かす言葉は神の国の言葉です。実際、使徒たちはこれから命を掛けて神の国の言葉を伝える使命に突き進んで行くことになります。

人間の先祖がまだ同じ言葉であった時に、創世記11章でバベルの塔を建てて神に逆らいました。その時に言葉が乱されて違う言葉になって、違う言葉同士は通じないようになってしまいました。それ以来、全世界を一つにして良い意味で通じ合えるようにする唯一の言葉が神の国の言葉です。

皆さんは神の国の言葉を毎日話されているでしょうか。神の国の言葉の単語や文章は聖書に書かれていますので簡単に知ることが出来ます。しかし神の国の言葉は、他の外国の言葉と同じで使い続けていないと忘れてしまい、使えなくなってしまうものです。

神の国の言葉の単語や文章を知っているだけではなくて、使うことが大切です。また神の国の言葉は文章を知っていても、聖霊に満たされないと話せない言葉です。しかし突然、神の国の言葉を教会の外で使うことには勇気がいるという方がいるかもしれません。

普段、神の国の言葉である聖霊の結ぶ実の言葉を家族に掛けておられるでしょうか。またご近所の気難しい方にも愛、喜び、平和、寛容の言葉を掛けておられるでしょうか。この世の肉の行いでは、到底語り得ない神の愛の言葉を聖霊の力によって話しださせていただきましょう。

もし少し神の国の言葉の会話練習が必要だと思われる方がおられましたら、どうぞこの後にコイノニア館で練習をしていってください。教会は神の国の言葉を使うところですから遠慮せずに使ってください。神の国の言葉の会話集は聖書に沢山書かれていますのでご参考にしてください。肉の行いの言葉は禁止です。

5、母国語

神の国の言葉を他国の言葉と言うと、私たちにとって新しい他の国の言葉と思ってしまうかも知れません。しかし元々人間は神のかたちに造られて、神から命の息を吹きいれられて、神の子として神の言葉を話す存在でした。

それが私たちの先祖であるアダムとエバが罪を犯して神に逆らって神の言葉を忘れてしまいました。私たちが神の国の言葉を話す時に本当に心から平安を覚えるのは、私たちにとって神の国の言葉は本来の母国語だからです。

神の国の言葉は、私たちにとって他の国の言葉ではありません。本来私たちが話すべき、私たちの言葉です。私たちを罪から救い、神の国の言葉を話すために主イエスは十字架に付けられました。そして今日のペンテコステに聖霊がこの世に降られました。

神を信じる全ての人を聖霊は満たしてくださいます。二千年前の初めてのペンテコステには刈入の初穂として3千人が洗礼を受けました(41節)。ペンテコステは教会の誕生日であり、ホーリネス教団の創立記念日です。聖霊に満たされて、力を受けて神の国の言葉を話させて頂きましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは、聖霊に満たされる者は、他国の言葉で話しだすと言われます。私たちは人間は罪深い存在であり、救われても肉の行いの言葉を口にしてしまい易い弱い存在です。

どうぞ私たち一人一人を聖霊で満たし、救いに与り、聖霊の結ぶ実の言葉を話す者とさせてください。そして神の偉大な業を語り、あなたを証しする者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。