「主の祝福」 

2023年6月4日礼拝説教 
申命記 15章1~11節

 

主の御名を賛美します。

1、負債の免除

主は、主の聖なる民、宝の民としての規定として、食物の規定、収穫の十分の一の規定に続く、3つ目の規定は負債の免除です。原語には負債の言葉は無く、ただの免除です。今日の個所には、「免除」の言葉が5回使われて強調されています。

主の聖なる民の貸し主は隣人に貸したものを7年の終わりごとに免除しなければなりません。この7年は個別に7年を数えるのではないようです。あなたには今年貸したから免除は7年後、あなたには2年前に貸したから免除は5年後ではなくて、すべてのイスラエル人に一斉の負債免除の年が定められました(31:10)。

その年には、隣人や同胞から負債を取り立ててはなりません。この規定を聞くと皆さんはどのように感じるでしょうか。負債の免除の考え方は日本の感覚とは違うように思います。義理人情に生きる日本的な感覚でいうと、借りたものはいつになっても耳を揃えて返すのというような考え方のように思います。

なぜ負債を免除するのでしょうか。その理由は何でしょうか。それは主が負債免除を告知されたからです。これはどのような意味でしょうか。これは安息年の規定と深く関わっています(レビ25:1~7)。イスラエルの人々は6年の間は、畑に種を蒔いて収穫をすることが出来ます。

しかし7年目は安息年ですから、種を蒔くことも収穫も出来ません。そうすると負債のある人も返済のしようがありませんし、負債の返済のことを考えていたら安息をすることが出来ません。負債のあった人も負債の返済から解放されて安息することが出来ます。安息年はすべての人が安息するためのものです。

負債の免除によって負債を負い続ける家もなくなり貧しい者は1人もいなくなります。主はすべての人の安息を願っておられますので負債を免除されます。そもそもすべての人は罪の負債を神に対して負っていて、罪の負債の返済は人間には不可能で免除していただく以外に方法はありません。

そこで主イエスが私たちの身代わりとなって十字架に付かれ、主イエスを信じる者の負債は免除されることになりました。マタイ18章では、1万タラントの借金を帳消しにしてもらった家来が、仲間の百デナリオンの借金をしている者を牢に入れたことで拷問係に引き渡されてしまいました。

主の聖なる民は、主イエスが主の祈りの中で教えてくださった、「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ」と祈り、その御言葉のとおりに生きます。

しかし同胞のイスラエル人が負っている負債は免除しなければならないのですが、外国人からは負債を取り立ててもよいというのは、随分な差別ではないのかという気もしてしまいそうです。しかしこれは差別をしているのではありません。

外国人はイスラエル人のための安息年の規定には関係なく、安息年にも仕事をして収入もあるだろうから取り立ててもよいという考えのようです。負債を免除される人は負債から解放されて良いかも知れませんが、貸していた人はチャラになってしまって、貸し損のような気もしてしまいそうですが、そうではありません。

貸していたものは免除とはなりますが、主の声に聞き従い、戒めを守り行うことによって、主が祝福してくださいます。何かを人に貸すと、その貸した人から返して貰おうと考えてしまいがちです。しかし主の声に聞き従うなら、人に貸したもの以上に主が祝福し返してくださいます。

人からの返済よりも主の祝福に期待したいものです。主は主の声に聞き従う者に6年目には3年分の収穫をもたらす(レビ25:21)と言われます。そうすることによって主の聖なる民は、多くの国民に貸すようになり、借りることはありません。また多くの国民を支配するようになりますが、支配されることはありません。

2、手を大きく広げる

何かを貸してくださいと頼む人が豊かな人であれば、きっと返してくれるだろうと思って安心して貸すことが出来るでしょう。しかし貧しい兄弟ですと返してもらえるだろうかという不安を抱くかも知れません。これは現代でも、人にお金を貸す銀行なども同じで、万が一に備えて担保をとったりします。

しかし主は貧しい兄弟に対して心を閉ざし、手をこまねいていてはならず、返って、彼に向って手を大きく広げ、必要なものを十分に貸し与えなさいと命じられます。7~11節には、「手」という言葉が4回使われて強調されています。聖書で「手」は力を表します。

手を大きく広げるためには、心を閉ざさずに、まず心を大きく広げる必要があります。そのためには6年間、主が祝福してくださったことを心に深く留めて感謝する必要があります。またもう少し細かく言いますと、1週間単位でも、6日間を主が守り祝福してくださったことを、7日目の安息日に感謝する必要があります。

主イエスが最も重要な第一の戒めと言われた、「心を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マタイ22:37、38)です。そこから第二の戒めの、「隣人を自分のように愛しなさい。」に続きます。手を大きく広げるということは、自分が握り締めているものを手放すことです。

その時に、7年目の負債免除の年まで年数が多くあれば返済して貰えるかなと思うかも知れませんが、その年が近づいていると、心によこしまなことを抱いてしまうかも知れません。そこでよこしまな心で貧しい同胞に物惜しみをし、何も与えないことのないように気をつけなさいと命じます。

貧しい同胞があなたのことで主に訴えると、あなたは罪に問われることになります。この箇所は聖書の内容を知らないと分かり難いと思います。普通の日本的な感覚で言うと、自分で稼いだ自分のものをどう使おうと自分の自由だと考えます。貧しい人に何も与えないと罪に問われる等と言われるとそのようなことを言われる筋合いは無いと考えてしまうでしょう。

しかし神はある人に何かを与える時に、すべてをその人の自由勝手にするために与えているのではありません。創世記1:26で神は人に、「地のあるゆるものを治めさせよう。」と言われました。治めるというのは規定に従って管理を行うことです。

すべてを自分の好き勝手にして良いのではありません。罪とは神の命令に逆らうことですので、神が貧しい者に与えなさいと言われているのに与えなければ、それは神に逆らう罪となります。罪となるということは裁かれるということです。

主はむしろ、「貧しい者に惜しみなく与えなさい。与えるときに惜しんではならない。」と命じられます。主の命令にはいつも約束が伴ないますが、貧しい者に与えることの約束は、「そのことで、あなたの神、主は、あなたのすべての働きとあなたのすべての手の業を祝福してくださる。」と言われます。

主はわたしたちの手の業を祝福して、私たちの手の上に大きな祝福を与えようとされています。しかし私たちが今、自分の手にあるものを握り締めて手を閉じていたら、主の祝福を受け取ることが出来ません。主の祝福を受け取るためには、今、自分の手にあるものを手放して、手を広げる必要があります。主は広げた空の手の上に沢山の祝福を置かれます。

主は、「この地から貧しい者がいなくなることはないので、私はあなたに命じる。この地に住むあなたの同胞、苦しむ者、貧しい者にあなたの手を大きく広げなさい。」と命じられます。手を広げることは物質的、金銭的に与えることだけではありません。精神的、時間的な意味でも与えることです。

主イエスは手を大きく広げて十字架に付けられました。それは私たちに救いを与え、永遠の命を与えるためです。主イエスの十字架によって永遠の命を与えられる私たちは、何に対して心を開いて、手を大きく広げることを求められているのでしょうか。

一人一人置かれている状況は違うと思います。祈りの中で聖霊に導かれることに対して、心を開き、手を大きく広げさせていただきましょう。苦しむ者、貧しい者に与えることによって貧しい者がいなくなって行きます。また与える者は大きく祝福されます。それが主の聖なる民、宝の民の祝福です。

3、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主は7年目の負債免除の年には免除し、貧しい者には手を大きく広げなさいと言われます。私たちは主イエスの十字架の恵みによって罪の負債を免除され、大きく広げた手に迎えられて永遠の命を与えられる者です。

この大きな恵みに生きる、主の聖なる民、宝の民として、聖霊の導きによって、「我らに罪をおかす者をゆるし」、貧しい者に手を大きく広げさせてください。そしてわたしたちのすべての働きと手の業を祝福してください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。