「罪人を招かれる主イエス」

2023年8月27日(日)
マタイによる福音書 9章9節~13節                                  亀田威牧師(大網キリスト教会)

【この物語を理解することは福音を理解すること】

 先週、私たちはユースジャム 2023という全国の青年たちが集まるキャンプに参加いたしました。日本全国から青年たちが集まり、賛美し御言葉を聴く、そこでは洗礼を受けたいという決心を与えられた方もいて、とても感謝な時でした。

 ユースジャム2023のテーマは「KNOW JESUS KNOW LIFE」です。日本語にすれば主イエスを知ることが、自分に与えられた人生を知ることでしょうか。主イエスを知るとは主イエスがどのようなお方であるかを知るということでしょう。そして、主イエスを知った時に、私たちに与えられている人生の意味を私たち一人ひとりが受け取り直すという意味もあると思います。

 今日共に聴いておりますこの物語は主イエスがマタイに声をかけ、そして、マタイが主イエスに従ったことが記されています。マタイも主イエスに声をかけられて、主イエスがどのようなお方かを知り、そして、自分に与えられた人生の意味を受け取り直しました。「KNOW JESUS KNOW LIFE」を経験しました。それまで罪の中にいたマタイは主イエスの弟子となり、そして、やがて主イエスの言葉やお姿を福音書に記します。聖書の一部を書き残した人とされたのです。このマタイと主イエスとの出会いの物語をある人は「この物語を理解することは福音を理解すること」と表現しています。福音とは喜びの知らせです。喜びの知らせを主イエスがマタイに届けてくださいました。そして、その知らせが今私たちのところにも届けられています。今日はマタイの物語から私たちに与えられている喜びを聴かせていただきたいと願っています。

【取税人の仕事とは】

9節の御言葉をもう一度お読みします。「イエスは、そこから進んで行き、マタイと言う人が収税所に座っているのを見て、『私に従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った」。マタイの仕事は税金を集める取税人です。ですが、私たちが考える税金を集める仕事とは理解が違うようです。当時のイスラエルはローマに従わされていました。ですから、集められた税金はローマのために用いられました。自分たちの国を外国の人に支配されることは我慢のならないことです。当時のイスラエルの人々は自分たちは神に選ばれた民だと受け止めていました。その神に選ばれた民が自分たちと同じ神を信じていない異教の人々に支配されているのです。大きな痛み、屈辱だったことでしょう。しかも、こともあろうにそのローマの手助けをしているのが取税人でした。また、この取税人たちは税金をいくら取るかということをローマに任されていました。ですから、取税人は本来取る分の税金に上乗せをして取っていることが多かったと言われています。彼らの多くは開き直って、税金に上乗せして人々からお金を集めていました。彼らは悪の中に生きていた人々でした。そして、その1人がマタイでした。

マタイは善人そのもののような人格者であって、主イエスの言葉を何の苦労もなく守ってみせたような人ではありませんでした。むしろ、主の教えからははるか遠くに離れていた人でした。ですが、主イエスはそのマタイを選ばれ、そして、マタイに「私に従いなさい」と声をかけられました。この御言葉に導かれてマタイは主イエスの弟子となり、主イエスの言葉を集め、福音書を書き記しました。福音書をマタイという人によって書かれたということを私たちはよく覚えておきたいと思います。

【罪のど真ん中に飛び込まれる主イエス】

同時に大切なことは主イエスがマタイに声をかけられたのは例えばあの人は可哀そうだと同情なさったからではありません。元々は善人で、わたしの言う通りに生きられる男だけど、偏見によって追い詰められて取税人となってしまったのだ、あのマタイは可哀そうだから声をかけてみようと思われた訳でもありません。

主イエスは取税人のことを12節で「病人」と呼びました。また、13節では「罪人」と呼んでいます。マタイは罪人であり、病人でした。罪によってマタイは病んでいたのです。もう一度9節をお読みします。「イエスは、そこから進んで行き、マタイと言う人が収税所に座っているのを見て、『私に従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」。マタイを罪から救い出すために主イエスはマタイのところへと進んで行かれました。9節には「収税所に座っているのを見て」と記されています。収税所はマタイが税金を集めるために働いていた場所です。そして、マタイが罪を犯していた場所です。罪を犯しているそのど真ん中においてマタイを主イエスはご覧になられました。そして、その罪からマタイに主イエスは呼びかけられました。「私に従いなさい」。

主イエスが「私に従いなさい」と声をかけられたのは、マタイは自分の仕事に嫌気がさしている時でも、一人で祈りながら悩み苦しんでいる時でもありませんでした。罪を犯している罪の現場において主イエスは「私に従いなさい」と声をかけられました。主イエスの御声を聴いた、マタイは立ち上がってついて行きました。

マタイの周りにいた人は何が起こったのかとびっくりしたかもしれません。もしかしたら、目の前で税金を取られている最中の男がいて、そこで突然マタイは立ち上がって男に従っていったという事件が起こったのかもしれないのです。

マタイは主イエスから声をかけられた出来事について詳しい話をしておりません。私たちは自分に起こった救いの出来事を話すことを証と呼んでいます。例えば救いの証しでは、多くの場合、自分が信仰を持つ前はどんなに悪い人間だったか、どんなに悩み苦しんでいたかを語り、主イエスが出会ってくださって、自分は救われたということをお話しすることでしょう。ですが、マタイの救いの証は本当に短いのです。「『私に従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」。

ところがびっくりするような出来事にもかかわらず、この出来事について書かれているのはたった2行です。ある先生はこのマタイの短い言葉を主イエスに従うことはそれだけ単純なことだと語っています。私たちは自分が救いを受け取るということについてあれやこれやと考えてしまうことがあるかもしれません。自分には救われる資格がないとか、あるいはこれをしなければ救われないとかです。ですが、聖書が語る救いとは本当に単純です。それは主イエスからかけられた御声にただ「はい」とお答えするだけです。マタイは主イエスに「私に従いなさい」と呼ばれました。だから立ち上がりついていきました。ただ、それだけのことです。本当に単純なことです。ですが、主イエスによって起こされた救いの出来事はそれまでの人生を180度変えてしまう激しい出来事です。それまで罪人であったマタイは主イエスの弟子として生き、そして、福音書を記したのですから。「私に従いなさい」という主の御声にマタイは立ち上がりました。「ああ、私は罪の中から呼び出されている」と思ったに違いありません。罪の中から呼び出し救い出してくださるお方、それが主イエスです。

マタイは「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という主イエスの言葉を記しています。「私」、つまり、キリストが来てくださったのはマタイを呼ぶためでした。収税所、罪の中から救い出すためでした。

【答えを与えられる主イエス】

「私に従いなさい」という招きに答えたマタイは主イエスを中心とした食事の席に招かれました。それが10節の御言葉です。「イエスが家で食事の席に着いておられたときのことである。そこに、徴税人や罪人が大勢来て、イエスや弟子たちと同席していた。」。

主イエスの食卓にはマタイだけではなく、多くの取税人や罪人が招かれていました。彼らは神から捨てられたと考えられていた人々です。その神から捨てられたように思われた人々を神である主イエスは、招いておられます。そこにパリサイ人がやって来て弟子たちに言います。「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。「あなたがたの先生」と弟子たちがパリサイ人にたずねられています。ところがです、このパリサイ人の問いかけに答えたのは主イエスでした。12節の御言葉をもう一度お読みします。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。主イエスは弟子たちに投げかけられた質問をまるでぱっと奪い取るようにして答えられました。主イエスがパリサイ人の問いかけに答えられたので、弟子たちは答えなくて済んだのでした。食卓についていた人たちは取税人や罪人たちです。自分たちが世間から好意的ではない目で見られていたことを彼らだって感じていたことでしょう。「私たちに罪はない」と胸を張って答えられるような自分たちではないことは彼らも承知していたはずです。ですから、なんで罪人と一緒にあなたがたの先生は食事をしているのかと問われて、もし、その問いに答えようとするならば、きっと困ったはずです。ところが、そこで主イエスがパリサイ人の問いかけに代わりに答えてくださいました。主イエスが答えられたのは自分しかパリサイ人の問いに対する答えを与えられないということをはっきり知っておられたからです。ですが、主イエスが代わりに答えられたのは取税人や罪人に対する「この人たちはパリサイ人にいじめられて可哀そう。よし、ここはわたしが代わりに答えて、パリサイ人から彼らを守ってあげよう」という同情からではありませんでした。

【パリサイ人は私たちの姿】

私たちはパリサイ人と聞くと主イエスに難癖をつける悪役だと思います。たとえば、皆さんは取税人の悪さとパリサイ人の悪さだったら、パリサイ人の悪さの方が分かりやすいでしょう。同時に、私たちはパリサイ人について誤解をしていと思います。

パリサイ人はとてもまじめな人たちでした。彼らは神様を信じ、そして、救い主がやがて来られるという約束を信じ待っていました。当時のイスラエルはローマに支配されていました。ローマにおべっかを使って、ローマのために働く人たちもいました。あるいは、神様が喜ばないような生活をし、好き勝手に暮らしている人たちがいました。そういう中でパリサイ人たちは神様に対する信仰を保とうとし、そして、律法によって道徳的な生活を送ろうとした人たちです。今がたとえ苦しくても、必ず神が報いてくださると信じていた人たちです。そう聞いて皆さんはどのようにお感じになるでしょうか。熱心なクリスチャンの姿と似ていると思われないでしょうか。

たとえ、家族がだらだらと過ごすような時にも、自分はその家族のために熱心に祈るのです。あるいは、私だけは信仰を熱心に守ろうとして教会に来る。ところがです、私たちの熱心さはただ、熱心なだけではありません。どこかで諦めも混ざっていることを皆さんもご経験されたことがあると思うのです。例えば、私たちは自分の救われていない家族が洗礼を受けてほしいと願います。自分の家族の救いを熱心に祈ります。ところが、中々、自分の家族は教会には来てくれない。自分の祈りは聞かれていないのかとがっかりする。どこかであの人はどうにもならないだろうと思ってしまう。わたしの家族はどれだけ熱心に祈っても救われないとどこか諦めていることを経験したことはないでしょうか。

「どうしてこんな仕方のない人たちなのか。私は違う。私は真剣に信仰生活を送っている」。私たちもパリサイ人そっくりの考え方をすることがないでしょうか。私たちは自分の信仰を保とう、あるいは悪い道を歩まないようにと自分の手を自分でキレイにしようとするところがあるように思うのです。自分の生活を綺麗にすることに一生懸命になります。ある人はそういうパリサイ人の考え方をさばきの垣根と呼びました。さばきの垣根とは「私とあなたは違う」とまるで自分と相手との間に壁を作って差別することです。この垣根が本当に私たちにはないと言えるでしょうか。差別の心が教会に通っている私たちの心には全くないとは誰も言えないと思うのです。

この垣根を取り除くにはどうしたらいいのでしょうか。一人真面目に過ごしたって意味がないから、好き放題生活すれば、垣根を取り除くことになるのでしょうか。主イエスはそんなことを言われているのではありません。主イエスは罪人と共に座りながら、罪人を癒すこと、罪人の罪を解決することをしておられます。12節で主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」と言われました。病の根源である罪に主イエスは容赦なさいません。パリサイ人にも、取税人にも罪があります。罪という病気になったのはばい菌が入ったからだけではありません。そのばい菌を受け入れてしまう私たちの悪さをも主イエスはここで問われています。「あなたにもさばきの垣根はないか。そして、その垣根の中から私はあの人とは違うと思っていないか」と。主イエスは病人を癒すために、その病を根元から断ち切ろうとしてくださっているのです。

【罪の深さを知っておられるのは主イエスだけ】

主イエスがパリサイ人の問いかけに対して、代りに答えられたのは、取税人の罪の重さも、パリサイ人の罪の重さも知っているのは主イエスだけだからです。主イエスだけが人間の罪の重さをご存知でした。それは、罪の重さを主イエスはご自分のいのちをかけて計られたからでした。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。この御言葉はパリサイ人だけではなく、私たちにもかけられている御声です。あなたの中にもさばきの垣根があるだろう、そのさばきの垣根、罪を取り除けるのは私だけだと主イエスは私たちに声をかけておられます。

ここで主イエスの言われた「学びなさい」には「出ていきなさい」という意味があります。「学びに出て行きなさい」「勉強しに出ていきなさい」と主イエスは言われました。主イエスは「学んできなさい」と声をかけられて、私たちの中にあるさばきの垣根から出て行けと言われました。パリサイ人が守った垣根、そこは自分の信仰を守れる場所、清潔さ、潔癖さを守れる場所でした。道徳を守れる場所でした。ですが、そこから出て行こうと招かれました。収税所からマタイが出て行ったように、主イエスはパリサイ人にも立ち上がることを求められました。立ち上がったパリサイ人を主イエスは本当の慈しみを学ぶことの出来るところへと導こうとしておられます。あなたが築いた垣根の中では慈しみを学ぶことは出来ない。あなたが憐れみを学ぶことが出来るのはこの食卓だ。このわたしの元だ。さぁ、あなたもここに座りなさい。

【罪の中から立ち上がることを求められる主イエス】

主イエスは取税人に対して「あなたは罪人だから、その罪のために死ね」とは言われませんでした。同じようにパリサイ人に対して「あなたは人をさばく罪を犯した、その罪のためにあなたは死ななければならない」とも言われませんでした。

ユースジャムの集会でメッセンジャーがスタッフと一緒に劇をしました。神の前に人間が立たされるところからその劇は始まります。そして、自分の犯した罪が読み上げられる。ところが、そこに主イエスが現れるのです。そして、その1つ1つの罪は私の罪だと言って身代わりにその罪を全て背負ってくださいます。そして、死なれるのです。この劇でメッセンジャーが伝えたかったことは、主イエスが罪の審きを受けられたということです。そして、その罪は主イエスが審きを代わりに受けられたので、もう赦されているということです。主イエスが学ぶように言われた慈しみとはまさにこの主イエスが全ての人間の罪の審きを身代わりに引き受けられたということでした。十字架による審きと赦し、それが、神の憐れみです。主イエスが父なる神の前に立たれて「この取税人も、このパリサイ人も、神よ、審かないでください。この者の罪の審きはわたしが代わりに受けます」と言われました。

この言葉は弟子たちには言えませんでした。私たちにも言えないのです。ただ、主イエスだけがお出来になられたことです。主イエスの慈しみです。神の審きを全てお引き受けになられ、そして、後ろにいる私たちに対して「さあ、立て、さあ、立って神の慈しみの前に立つのだ。ここにしか、差別を乗り越える道はない。ここにしか人をさばくことをやめる道はないのだ」と言われています。この招きにただお従いしようではありませんか。