「あなたがたを救う神」

2023年9月17日礼拝説教  
申命記 20章1~9節

        

主の御名を賛美します。

1、見て、恐れてはならない

今日の聖書個所は、「あなたが敵に向かって出陣するとき」と物騒な書き出しで始まります。まず「出陣するとき」というのはどのようなときなのでしょうか。これは人間の都合によって決めるときではありません。神は私たち人間に多くの恵みを与えてくださっています。私たちはその恵みをただ感謝して受け取るだけです。

しかし神はときに私たち自身に足を運んで手を使って出陣することを命じられることがあります。それは文脈からも、19:19にありましたように、悪を取り除くときです。聖なる神は悪をそのまま放置することは出来ませんので、私たちを用いて悪を取り除くことをされるときがあります。

それは神の正義を実現するためです。神の民が出陣するのは神が命じられるときだけであり、人間が自分の都合で勝手に出陣してはなりません。そして神に出陣を命じられたら恐れてはなりません。

ところで人はなぜ敵を恐れるのでしょうか。それは馬や戦車、また自分よりも数の多い軍勢等のこの世のものだけを見るからです。出エジプト記で、神がエジプトの地からイスラエルを導き上ったときに、エジプトは多数の馬や戦車、軍勢でイスラエルを追って来ました。

しかし神が共におられるのでイスラエルの全てを守られました。イスラエルは出エジプトの出来事をしっかりと心に留めて、敵を見ても恐れずに神の出陣の命令に従うようになったのでしょうか。もしそうであるならここで、わざわざ敵の軍勢を見て恐れてはならないと命じる必要はありません。

ここは何を前提に書かれているのでしょうか。それはこの申命記の初めの1:19から書かれているカデシュ・バルネアでの事件です(民数記13、14章)。その時にイスラエルはこれから進んで行くカナンの地に各部族の代表者1人づつからなる12人を偵察隊として送りました。

カナンの地は豊かな果実のなる良い地でしたが、巨人の先住民が住んでいるのを偵察隊は見ました。12人の内のヨシュアとカレブの2人だけは、カナンは良い地であり、神が共におられるのだから、先住民を恐れてはならず、神に逆らってはならないと主張しました。

しかし先住民を見て恐れた残りの10人は、イスラエルの人々の間にカナンの地について悪い噂を広めて、神の御心とは正反対の方向へと先導しました。これは良いように考えれば、イスラエルの人々が先住民に打ち負かされることのないようにと考えて良かれと思って行ったこととも思えます。

しかしそれは10人が先住民というこの世のものだけを見て恐れて、神の命令よりも自分の考えを優先する罪です。イスラエルの人々は直接にカナンの地を見ていないので正確なことは知りません。しかし10人による、この世の見えるものの恐れという、人間の感情に訴える最もらしい説明に引き摺られてしまいました。

そして10人による神に逆らう罪の道に、人々はまんまと乗せられてしまいました。イスラエルの人々は、言ってみれば、10人に罪の道に乗せられただけです。しかしその責任は重いものでした。それから40年間は荒れ野を彷徨うこととなり、その時に20歳以上だった者は荒れ野で倒れることになり、神の約束の地であるカナンには入れません。

カデシュ・バルネア事件のことは聖書で繰り返し語られて強調されます。それは単なる歴史上の過去の出来事ではなくて、残念ながら現代の社会、また教会でも起こることだからです。この世のものや、この世の価値観だけで見て恐れてしまう弱い人はいます。往々にしてこのような人は声が大きいものです。

「弱い犬ほどよく吠える」というようなものです。そのような人が悪い噂を広めて、事情を良く知らない神の民を恐れさせて、御心とは正反対の自分の考えた間違った方向に人々を引き摺ってしまうことが起こります。そしてカデシュ・バルネア事件のように共同体の全体が間違った方向に進んで行ってしまうことがあります。その結果は明らかで、共同体が神の祝福を失うことになります。

この世のものを見て、恐れの罪の中で考えて、御心よりも自分の考えを通そうとする人はいつの時代にもいます。しかしそのような悪に皆が流されないためには、一人一人が祈りの中で御心を求め、悪と戦うことが神の御心であると示されるなら、恐れずに悪と戦い取り除く必要があります。

2、あなたがたを救う神1①

イスラエルがエジプトを脱出したときは、イスラエルはある意味で逃げただけで、自分から敵に向かって出陣したのではありませんでした。イスラエルの初めての出陣となるはずのカデシュ・バルネアではこの世のものを見て、恐れて失敗してしまいました。

しかしイスラエルはこれまでの40年間、無駄に荒れ野を彷徨って来たのではありません。イスラエルの親戚の子孫たちが悪い先住民を取り除いて支配した地域を見て来ました。またイスラエル自身もオグ・シホン・コンビ等との戦いに勝利する成功体験も積んで来ました。いよいよ本番の出陣です。

戦いの場に臨むときは、この世のものだけを見て囚われることのないようにします。そのために霊的に民を励ます役割を持つ祭司は進み出て民に告げ、次のように言います。「聞け、イスラエルよ。」 神の民であるイスラエルが行うことは、自分の目でこの世のことを見て、恐れることではありません。まず神の言葉を聞くことです。

「あなたがたは今日、敵と戦おうとしている。気弱になるな。恐れるな。うろたえるな。敵の前でおののくな。」 4つの表現を使っていますが同じ意味です。しかし「恐れるな」と言われただけで、恐れなくなるのであればそれ程に楽なことはありません。目に見える多くの敵を恐れないで済む理由が必要です。

そこで理由として、「あなたがたの神、主が共に歩み、あなたがたのために敵と戦い、あなたがたを救うからである。」と説明します。この世の敵の馬や戦車、軍勢は見ることができます。しかし主が共に歩み、敵と戦い、わたしたちを救うことは、霊の世界で始まることですので、信仰の目で見る必要があります。

列王記下6:15で、預言者エリシャが敵対するアラムの軍隊の馬と戦車で包囲されて、エリシャの召し使いは見て恐れました。しかしエリシャが「恐れることはない」と言って祈って召し使いの霊の目が開かれると、山はエリシャを守るために取り囲む火の馬と戦車で満ちていました。

現代においては、敵に囲まれたときに祈っても、自分を守る火の馬と戦車は見えないかも知れません。しかしその本質は変わりません。神が共に歩み、敵と戦い、救ってくださいます。新約の時代において悪と戦うときには、これは霊の戦いですので「神の武具を身に着けなさい」とエフェソ6:11で勧められています。

私たちを救うために主イエスが十字架に付かれ、聖霊が与えられています。神の武具はこの世の見える武器より圧倒的に強いものです。神が救ってくださるという約束に全幅の信頼を寄せて歩ませていただきたいものです。

3、戦闘の逃れの道

神の救いは戦いの前にも備えられています。戦いは万が一の場合には命のリスクもあるものです。そこで今はそのような命のリスクを負うときではない人には、19章の初めの逃れの町ではないですが、戦闘の逃れの道が備えられています。これは実務的なこととして役人たちが民に告げます。

1つ目は、新しい家を建てて、まだ奉献していない人です。それは戦闘で死んで、ほかの人がそれを奉献することにならないためです。新しい家を建てる人はその家に1年間はその家に住めると考えられていたようです。

2つ目は、ぶどうの苗を植えて、まだ収穫を得ていない人です。それは戦闘で死んで、ほかの人が収穫を得ることにならないためです。これはレビ記19:23~25の果樹を植えるときの規定で、果樹は植えてから3年間はその実を食べてはならず、4年目のものは主への献げ物になり、5年目にして初めて食べることができます。

そうしますと果樹を植えると5年間は戦闘に参加しないで良いことになるのでしょうか。この5年間の戦闘を免除されるのは志願兵の場合だけです。神がイスラエルの兵士は全員出陣しなさいと命令されるときには適用されません。

3つ目は、女と婚約して、結婚をしていない人です。それは戦闘で死んで、ほかの人が彼女と結婚することにならないためです。現代の感覚で考えると、結婚をした後に戦闘で死ぬようなことがあったら、返ってその女の人が戦争未亡人となって可哀そうな感じがしますので、一層のこと、婚約を解消した方が良いのでは、とまで感じてしまいます。

しかしそうではないようです。24:5では、結婚した者は1年間は兵役を免除され、妻を喜ばせることに専念します。これらの3つの規定を見ますと、何かの働きをする者にはそれに伴う結果の祝福を味わい楽しむ権利が大切にされていることが分かります。

新しい家を建てるには、費用も労力も大きなものを要します。ぶどうの苗を植えることと婚約することも同じです。神は本当に憐れみ深い方であり、それだけのことを行った人はその結果を大いに楽しみなさいと言われます。

役人たちは、さらに別の意味で戦闘を免除される人について告げます。それは、恐れて気弱になっている者です。人には色々なタイプの人がいますし、同じ人でもそのときによって状態は異なるものです。恐れて気弱になっている心というのは他に人にもうつって行くものですので、それは同胞の心が挫けないためです。

前記の3つの戦闘を免除されるときの人も、1つには行った働きに対する祝福を楽しむという意味があります。しかし、もしもそのような状態の人が戦闘に参加すれば、若しかすると、ほかの人が自分が建てた新しい家を奉献するのではないか、ほかの人が自分が植えたぶどうの収穫を得るのではないか、ほかの人が自分の婚約者と結婚するのではないか、等と心配してしまうかも知れません。

そのようなことは本人のためにも良くありませんし、他の人にも悪い影響を与えることになってしまいます。コヘレトの言葉3:1は、「天の下では、すべてに時機があり すべての出来事に時がある。」と言います。今がどの時であるのか神の御心を求めて、その時に応じて必要な最善のことを行う必要があります。

4、あなたがたを救う神②

神の民であるイスラエルの戦いは、神が共に歩み、敵と戦い、救ってくださいます。極端なことを言えば、神はわざわざイスラエルの手を必要とはされません。しかしだからと言って、イスラエルがいつまでも自分ではなにもせずに神がすべてをされていたら、いつまでもイスラエルの成長はありません。

これは子育てと全く同じです。例え失敗をしても子どもに自分でさせてみて、失敗を繰り返して学びながら子どもは成長をして行くものです。失敗をしないようにと、いつまでも親が全てを行っていたら子ども成長の機会を奪ってしまうことになります。親は子どもの行うことをじっと見守り、必要な時には助けを出して救うものです。

それと共に過去の大きな失敗は何度も繰り返し言って、良く言い聞かせる必要があります。イスラエルにとってのカデシュ・バルネア事件は何度も語られます。歴史から教訓をしっかりと学ぶためです。イスラエルの人々はカデシュ・バルネア事件は御心に適わない間違ったことであったと直ぐに認めました。

しかし失敗を取り戻そうとして、1:41で神のときでないのに戦いに出て行ってしまい、敗れてしまいました。罪を犯した者が神が戦いを命じられていないときに出て行っては救いはありません。そして40年間、荒れ野を彷徨うことになり、20歳以上だった人は約束の地には入れなくなりました。

まず御心に逆らった失敗は素直に認めて悔い改める必要があります。失敗を認めなければ同じ失敗を繰り返し続けることになります。更に裁きは御心に逆らった本人だけではなく、その失敗を許した共同体全体に及ぶことになります。これは共同体の問題にもなりますので、共同体の責任において悔い改める必要があります。

私たちが初めは良かれと思って行ったことが、結果としては御心に逆らうことになってしまったような失敗のためにも主イエスは十字架に付いてくださいました。それはどんなときにも主イエスを信じ、従う者も救うためです。神は私たち自身の罪からも救ってくださいますし、悪との戦いにおいても救ってくださいます。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。イスラエルはかつてカデシュ・バルネアで、神の命令よりも自分のたちの考えを優先するという罪を犯し、荒れ野を40年間、彷徨うこととなりました。このことはイスラエルだけの問題ではありません。

人は、弱い者がこの世のことだけを見て恐れの中で言う言葉に流されてしまい易い弱い存在です。しかしあなたはそのような私たちを救うために主イエスを十字架に付けられ、聖霊を遣わしてくださいますから有難うございます。

聖霊の導きに従って、私たちが恐れずに御心に従うことが出来ますように、また恐れの中で自分の考えに囚われている人を解放してください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。