「苦しい時にこそ神に祈ろう」

2024年2月25日礼拝説教 
ヤコブの手紙 5章13~18節                              安井聖牧師(西落合キリスト教会) 

13節の「あなたがたの中で苦しんでいる人があれば、祈りなさい」を、ある人は「あなた方の中で不愉快な人があれば、祈りなさい」と訳した。毎日の生活の中で不愉快な気分を味わっているわたしたちに聖書は語りかけている。あなたが不愉快な気分を味わうなら、そのたびに神に向かって、不愉快な心に解決を与えてくださるように祈り願ってごらん。14節では、病気の者に対して神に癒しを願うことが勧められている。しかしそこでも、重篤な病の癒しだけを考える必要はない。些細に思うような不調を覚える時にも、神に癒しを願ってごらん。そうやって神に遠慮なく祈るように励ましている。

 わたしの前任の西落合教会の牧師であった米田奈津子先生は、晩年重い病に苦しみ、病はどんどん進行していった。医学的には癒される可能性がない状況で、米田先生は最後まで病気の癒しを祈り続けて、それからほどなくして亡くなった。わたしは心の中で問うた。癒しを祈り続けたあの祈りにどんな意味があったのか。祈りの中で米田先生は深い空しさを覚えていたのではないか。しかしこのヤコブの手紙の言葉を読んで、自分が考え違いをしていることに気づかされた。あの時に米田先生が最も祈りたかった祈りが、まさに「わたしをお癒しください」との祈りだった。そして米田先生は何の遠慮もなく、自分が祈りたい祈りを祈り続けて最期の時を歩まれた。そんな米田先生の祈りを神は受け止め続けておられたし、米田先生自身が祈る自分に御顔を向け続けておられる神のお姿を見せていただいておられたに違いない、そう思うようになった。

 15節後半からこう語られている。「その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。それゆえに、癒されるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい」。わたしたちは苦しみの中で、不愉快さの中で、かえって祈りから遠ざかってしまう誘惑にさらされている。苦しみの中で自分の口を突いて出てくる言葉は、決して神に喜んでいただけるようなものではなく、まさに罪人としての卑しい自分の姿がそのまま現れ出てしまうと思う。そう思うからこそ、こんな自分の姿では神に祈ることができない、そんなふうに思ってしまう。しかしそんなわたしたちに聖書は語りかけている。まさにそのようなあなたにこそ、罪の赦しが与えられているではないか。そんなあなたのためにこそ、主イエスは十字架に死んでくださったではないか。その罪の赦しの恵みに寄りすがりながら、自分の祈りの中にも絡みついている罪の姿に囚われず、解き放たれて、神に祈っていい。こんな罪深い祈りしちゃいけない、じゃない。罪を抱えたまま祈っていい。罪人のままで祈っていい。まさにその祈りの中で、主はわたしたちを罪から立ち上がらせてくださる。