「良くなりたいか」
2024年4月14日礼拝式説教
ヨハネによる福音書5章1~14節 野田栄美
- 異なる視点
起きている出来事は同じでも、それを見る人によって、意味は違ってきます。今日は、人と主イエスが見ていることの違いを通して、罪に生きること、また、そこから救い出してくださる主イエスの愛を見せていただきましょう。
- ベトザタの池
主イエスはユダヤ人の祭りのためにエルサレムへ上られました。エルサレムの神殿近くの羊の門のそばに、「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。そこに、丁度、漢字の「日」の字のように、2つの池の周りに5つの回廊がありました。北の池は、52×40メートル、南の池は64×47メートルあったそうです。男女がそれぞれの池で巡礼のための沐浴ができるように、ヘロデ大王が設置したと言われています。
「ベトザタ」の意味は、諸説ありますが、「恵みの家」、「あわれみの家」と言われます。けれども、実際のその様子は、恵みやあわれみが溢れる温かい場所ではありませんでした。その回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていたからです。
なぜ、病気の人が集まったのか、その理由は、今日お読みした本文には書かれていない4節に説明されています(ヨハネの福音書の最後に記載)。4節は、写本の中でも有力で、信用できるものには書かれていません。元々はなかった文章です。けれども、なぜ、この場所にこのような大勢の病気の人たちが集まっていたのかを理解する助けになる節です。5章4節「彼らは、水が動くのを待っていた。ある時間になると、主の天使が池に降りて来て水を動かしたので、水が動いたとき、真っ先に入る者は、どんな病気にかかっていても、良くなったからである」これは、迷信のようなものだったでしょう。勿論温泉のように効能があったかもしれません。ただ、最初に入った人だけが癒やされるというのは考えにくいことです。また、天使が水を動かすというのは、この池は水が吹き出す間欠泉だったのではないかとも言われています。
- 38年間病気だった人
そこに38年もの間、病気で苦しんでいる人が横たわっていました。それは非常に長い年月です。その人は、水が動く時に、池の中に自分を入れてくれる人がいないので、自分でどうにか動いて入ろうとすると、もう、他の人が先に降りてしまうのだと言っています。彼の病気は何であったかは分かりませんが、自由に動くことができなかったのでしょう。
この人がベトザタにどのくらい通っていたかはわかりませんが、あの人はずっと動けないのだと気が付く人もいるでしょう。でも誰もその人のことを心に留めませんでした。我先にと後から来た人も入ってしまうのは、あまりにも可哀想です。順番で入るようにできなかったのでしょうか。この時のベトザタの光景は、人々の自己中心が渦巻いているところであり、人のことを気にかけることのできない、悲しみや痛みを背負った人たちの集まりでした。この聖書の文章からは、希望は見えません。苦しみや悲しみ、そして、気力を失った人の姿があるだけです。
- 自分の中に留まる
そこへ、主イエスが通りかかり、横になっているその人に目を留めてくださいました。神の子である主イエスはその人が長い間病気である人だと知り、声を掛けてくださいました。「良くなりたいか」と。その問いこの人はこう答えています。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」
この人は良くなるために、ベトザタの池に来ています。でも、なぜ「良くなりたいです」と答えることができなかったのでしょう。この人は、自分の考えの中で堂々巡りをし続けていて、自由に考えることができなくなっています。良くなるには、水が動いた時に誰よりも早く水に入らなければならない。それが良くなるための唯一の方法だと思っています。ですから、「良くなりたいのか」という問いに「池に最初に入ることができない」と答えてしまったのでしょう。
2月の東京聖書学院出張講座で、安井聖師がジャン・カルヴァンの言葉を引用されました。それは、祈りとは「自分の外に出ることだ」という言葉でした。この病人は、自分の中で「良くなりたい、良くなりたい」と願っていたでしょう。きっと、そのために池の水から目を離さずに、じっと動くのを待っていたと思います。それは、自分の外に出るのではなく、自分の中に籠もっている姿です、加藤常昭師は、そのような祈りのことを「自分の内面に留まり、神と対話しているつもりで、実際は自分をみつめ、自分と語っているだけで終わる」ようなものだと言っています。これは、神へ目を向けている姿ではありません。
- 信仰と批判
そんな、自分の中だけに目を向けている彼は、主イエスの「良くなりたいか」という言葉によって、本来彼が願っていたことを思い出したでしょう。彼は、自分は「良くなりたい」のだと改めて気が付きました。そして、自分の「良くなりたい」という願いを主イエスが分かってくれているという喜びを感じました。
その喜びが、次の場面に表れています。主イエスが、その人に「起きて、床を担いで歩きなさい」と、できる訳のない無謀なことをおっしゃったとき、その人はその言葉を信じ、従いました。その人は直ぐによくなって床を担いで歩き出しました。「良くなりたいか」という主イエスの温かい言葉が、自分の考えに凝り固まっていた心を解放し、主イエスのお言葉を信じる信仰を与えてくれました。
ここで、話が終わるのならば、素晴らしい奇跡の話であったでしょう。けれども、更に話は続きます。その日は安息日でした。この時代の戒律主義・律法主義の人たちは、彼らの教えを守らない人を批判するために目を光らせていました。ここでユダヤ人と言われる人たちがそうです。彼らは、癒やされたことを喜ぶどころか、その点には触れずに、責める点を探して、安息日に者を運んではいけない、床を担いで歩くことは禁じられていると、癒やされた人を批判しました。その人は、「私を治してくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えました。「それは誰だ」とユダヤ人は言いますが、その人はそれが誰だか知りませんでした。主イエスが立ち去られた後だったからです。
同じ奇跡の場に居合わせた人であっても、一方では主イエスへの信仰をいただき、一方では、主イエスを非難するという真逆のことが起こっています。
- 罪と病気
主イエスはこの後、病気だった人に出会われました。そして、「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言われました。これは「あなたが罪を犯していたから病気になったのだ。だから、また、罪を犯すともっとひどい病気になるぞ」と脅している言葉ではありません。
病気は罪の結果なのかという問いには、答えがあります。ヨハネの福音書9章1~12節に生まれつき目が見えない人が癒やされた話が出てきます。ここで、弟子たちが「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰かが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と聞くと、主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになりました。
では「もう罪を犯してはいけない」とはどのような意味でしょうか。生まれてから一度も罪を犯したことがない人はいません。嘘や批判など小さなことは誰にでも思い当たることはあるはずです。聖書は誰もが罪人だと言っています。それは、この38年間病気だった人も例外ではありません。そういう意味で、「もう罪を犯さないでいなさい」と言われました。これは、神の前に新たな生き方をするように、招いておられる言葉です。そして、「もっと悪いこと」こととは神の支配の中に入ることができないということです。いつか天国へ入ることができないということです。あなたは、神の支配の中で生きるために、もう、罪を犯さないでいなさいという意味です。
- 主イエスからの救い
この素晴らしい奇跡の中で、人々と主イエスの様子は大きく違います。ここには、自分自身の考えの中に閉じこもってしまう人、38年も病気で苦しんでいる人を見て見ぬ振りをする人、自分が治ることだけを考えている人、人が治ったことを喜ばない人、そして、人のあら探しをする人が出てきました。これが罪の中に生きている人の姿です。
けれども、主イエスに注目してみると、それは、私たちを温かく包むような愛に満ちています。主イエスは、38年間も苦しんでいる人を憐れんでくださいました。そして、その人の真の願いに目を留めてくださいました。そして、「良くなりたいか」と、一番欲しかった言葉をかけてくださいました。更に言葉をかけて、癒やしてくださいました。その後も、その人の所へ戻って、「あなたは良くなったのだ」と宣言してくださり、「もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」という言葉によって、これから歩むべき道を示してくださいました。この全てが、神の国への招きの言葉、福音です。
主イエスはいつも愛によって行動されます。その愛のゆえに、主イエスは人の罪を代わりに背負って十字架にかかってくださいました。そして、その十字架によって、私たちにも、神と共に生きる道が用意されました。
この奇跡のできごとは、遠い昔のできごとで、あなたには何も関係の無いことのように思うかもしれません。けれども、主イエスは復活されて、今も生きておられます。そして、38年も病気で苦しんでいた人に目を留めて癒やしてくださったように、主イエスはあなたに目を留めておられます。「良くなりたいか」と声を掛けておられます。あなたの中であなたを縛っている思いから解放していただきましょう。罪の中から、神の支配へと導いていただきましょう。