「喜び楽しんで仕える」 

2024年5月5日礼拝式説教 
申命記 28章47~68節
        
主の御名を賛美します。4年前に高輪ゲートウェイ(入り口)駅が品川駅と田町駅の間に開業しましたが、私には関わることの無い駅だと思っていました。しかしあるときに、京浜急行の北の始発駅である泉岳寺駅と高輪ゲートウェイ駅は徒歩数分の距離であることが分かりました。

横須賀の実家に行くときに、高輪ゲートウェイ駅経由にすると片道で140円安くなりますので、今後は使うことが増えそうです。高輪ゲートウェイ駅は私にとっては横須賀ゲートウェイで、人生は何がどこに繋がるのか分からないものだと考えさせられました。

1、豊かになって
28章では、イスラエルが主の声に聞き従うなら祝福され、聞き従わないならば呪われ滅ぼされることが語られています。イスラエルは主の聖なる民として祝福されて一度は豊かになりますが、その後にどのようになって行くのでしょうか。

あなたはすべてのものに豊かになっても、あなたの神、主に心から喜び楽しんで仕えようとしません。これはなぜなのでしょうか。すべてのものを与えてくださるのは神ですが、豊かになると、いつの間にか、その豊かさが当たり前のように感じるようになり易いものです。罪深い人間は、与えてくださる神への感謝を忘れてしまい易いものです。

この箇所を読みますとルカ15:11~32の放蕩息子の話が思い浮かびます。放蕩息子は裕福な家庭に生まれ育ちましたが、その豊かさの中で神に対しても父親に対しても感謝することを忘れてしまいました。このようなことは私たちの色々な人間関係の中でもあることです。

例えば家族の関係ですと、親子、夫婦、兄弟等、またそれ以外の友人、職場の人、近所の人や教会員等との人間関係においてです。色々な人に良くしてもらうことがあるものですが、人間は不完全ですから、すべてにおいて完璧という人はいません。

そのときにいつも、「あれをしてくれない、これをしてくれない」と不満だけを言い続けて、くれない族になるのか、それとも良くしてくれたことに対して感謝の気持ちを持つのかです。それによって人間関係は大きく変わって行きます。

イスラエルは主に感謝し、喜び楽しんで仕えようとしなかったので、あなたは飢えと渇きに見舞われ、裸となり、あらゆるものに事欠いて、主が遣わされる敵に仕えるようになります。放蕩息子は財産の分け前を貰いましたが使い果たしてしまい、飢えと渇きに見舞われて、ユダヤ人には汚れた動物である豚を飼う人に仕えるようになりました。

私たちは、主に心から喜び楽しんで仕えようとしないと、主が遣わされる敵に仕えるようになります。主に仕えるか、敵に仕えるかの2択です。主に仕えるか、敵に仕えるかのどちらかの2択と言われて、敵に仕えることを、わざわざ選ぶような愚かな者はいないだろうと思います。

しかしこの後の聖書を読み、また歴史を見ますと、神に初めに聖なる民として選ばれたユダヤ人は結果として敵に仕えることを選ぶことになります。なぜ賢いと言われるユダヤ人が、そのような愚かな選択をするのでしょうか。初めから、主に仕えるか、敵に仕えるかを選ぶのではありません。

初めは、主に仕えるか、仕えないかです。主に仕えないことは、主以外の他のものに仕えることです。それは何かと言いますと自分です。主ではなく、自分の考え、自分の欲等、自己中心的に自分に仕えます。放蕩息子も初めは自分の欲望に仕えて財産を使い果たしました。その結果、豚を飼う人に仕えざるを得なくなりました。

主に仕えずに自分に仕えると、飢えと渇きに見舞われ、裸となり、あらゆるものに事欠いて、敵に仕えるようになります。「風が吹けば桶屋が儲かる」の短いバージョンのようなものでしょうか。

2、滅び
敵に仕えるようになると敵は何をするのでしょうか。敵はあなたの首に鉄の軛をはめ、あなたを滅びに至らせます。今日の個所でも「滅ぶ」という言葉を4回使って強調します(48、51、61、63節)。前回は疫病等による滅びでしたが、今回の一つ目は敵によって滅ぼされます。

敵は言葉を聞いたこともない外国人で、憐れみなく、あなたに何も食べ物も飲み物も残さず滅ぼします。飢餓による滅びです。敵はあなたのすべての町を包囲し、あなたが頼みとする、全土に高く築いた城壁を打ち崩します。そして主があなたに与えたすべての地の、すべての町を敵が包囲します。

そうすると困窮の飢餓のために、親が子どもを食べるという地獄のようなことが起こると言います。このことは、ここの個所だけではなく、エレミヤ書(19:9)や哀歌(2:20、4:10)にも書かれていますので、本当にあることのようです。滅びは敵の支配による滅びに始まって、自らの手でも滅びを招きます。

3、呪いの纏め
58節からは15節から始まる呪いの纏めです。主の律法の言葉のすべてを守り行わないのは、主を畏れないからです。主を畏れずに、主に仕えなくても大丈夫だと考えることは主を侮ることです。主はそのようなあなたとその子孫に激しい災いを下されます。

イスラエルは罪の象徴であるエジプトを脱出して、もうエジプトとは関りがありませんが、主は、あなたが恐れていたエジプトのあらゆる病気を再び臨ませます。22節の疫病や27節の病等です。主はさらに、この律法の書に書かれていないあらゆる病と災いをあなたにもたらし、あなたを滅びに至らせます。滅びをもたらすものは、病と災いです。

そのために僅かな者しか残りません。僅かな者しか残らないことは少し否定的な感じもしますが、完全に滅ぼし尽くすことはしない主の憐れみも感じます。それは神の選ばれた聖なる民に希望の芽を残すためです。

このことは現代に生きる信仰者であるクリスチャンに対しても似た部分があります。クリスチャンが主に心から喜び楽しんで仕えようとしないなら裁きがありますが、一度で完全に滅ぼし尽くすことは少ないと思われます。それは主は裁きによって信仰者が自分の誤りに気付いて悔い改めることを望んでおられるからです。

しかし主は自分を滅ぼすことは無いと高を括って主を侮ることはとても危険です。主は私たち人間の考えの及ばない御心をなされるお方だからです。

主は地の果てから果てまで、あらゆる民の中にあなたがたを散らされ、あなたはそこで、あなたも先祖たちも知らなかった木や石でできた他の神々に仕えるようになります。このことは前回もお話しましたが、聖書の歴史に中ではイスラエル王国が滅ぼされて、紀元前5百年代にバビロンに捕囚となって現実のこととなります。

またイスラエルの歴史では、紀元66~73年のユダヤ戦争でローマ軍に敗れて、ユダヤ人はこの預言のとおりに世界中に散らされることになりました。

4、喜び楽しんで仕える
あなたの命は危険にさらされ、夜も昼もおびえ、その命さえおぼつかなくなります。あなたは、心に抱く恐怖と目の当たりにする光景のために、朝には「夕方ならよいのに」と言います。なぜこのようなことを言うのでしょうか。

朝を迎えると、その後の一日中、恐ろしい光景を目の当たりにしなければならなくなるので、早く終わって夕方ならよいのにと思うのでしょう。主に仕える信仰者は朝には、今日は主がどんな恵みを与えてくださるのかと一日を楽しみにするものです。

また夕方には「朝ならよいのに」と言います。これは恐怖を心に抱いているので安心をして眠れないので、朝ならよいのにと思うのでしょう。信仰者は夕方には、一日の恵みを感謝し、夕方をゆっくりと過ごして、心地良い疲れの中で夜の眠りを楽しむものです。

主に仕えない者は一日中、早くそのときが過ぎるのを願っているのですから、それは結果的には人生が早く終わることを望んでいることになります。それに対して信仰者はいつもそのときを感謝し、喜び楽しんで過ごします。

聖書を読んでいますと、一体ユダヤ人は何をしているんだろうかと感じることがあるかも知れません。しかしユダヤ人は神に初めに選ばれた民族として、人間が自分の力で生きて行くとどうなるのかということを教えてくれる、とても貴重な教訓です。

私は次男で、長男と比べて良かった点と、そうでもなかった点の両方があります。良かった点は、長男の生き方を近くで見ていて、親子関係等を含めて何か上手く行かなかったと思えるようなときには、どうすれば良いのかと学べたことだと思います。

私たちが聖書を読みながら、ユダヤ人と同じ失敗を繰り返していたら、ユダヤ人の歴史、また神がユダヤ人をとおして私たちに与えてくださった聖書を無駄にしてしまいます。書かれていることは簡単なことです。主に心から喜び楽しんで仕えるなら、祝福されて喜び楽しんで生きて行きます。これほどに良いことはありません。

しかしそうでなければ、敵に仕えるようになり滅びに至ります。これは明らかに全く迷う余地のない選択です。しかも自分の力で主に心から喜び楽しんで仕えるのではありません。罪人である私たち人間の罪を赦すために主イエスが十字架に付かれ、主イエスを信じる者には聖霊が力を与えてくださり、主に仕えるように導いてくださいます。この後に行われる聖餐で、そのことをもう一度覚えましょう。

更にこれは主イエスを信じる一人の人だけの問題ではありません。その人に関わる多くの人の人生に大きな影響を与えることになります。主に心から喜び楽しんで仕えることが祝福のゲートウェイです。聖霊に導かれ祝福の道を歩ませていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは主に心から喜び楽しんで仕えるなら祝福の道を歩み、そうでなければ滅びに至ると教えてくださいますから有難うございます。私たちが聖書に書いてあること、またユダヤ人の歴史から学び、聖霊の導きの中で、主に仕え、祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。