「新しいぶどう酒は新しい革袋に」

2025年1月5日礼拝式説教  
マルコによる福音書2章18~22節
        
主の御名を賛美します。

1、断食
前回のところで、主イエスと弟子たちは徴税人や罪人と一緒に食事をしていました。そのことでファリサイ派の律法学者たちは文句を言いました。主イエスと弟子たちは徴税人や罪人たちと食事をする機会が多かったようです。マタイ11:19に、「人の子が来て、食べたり飲んだりすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」と書かれています。

ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していました。今日の前半では「断食」を6回使って強調します。ユダヤ人にとって断食は大切なものです。マタイ6章の天に積む宝として、施し、祈り、断食が挙げられています。

旧約聖書で初めは、レビ16:29で定められた贖いの日に、1年に1回、断食の日が決められていました。それが捕囚後のゼカリヤ8:19では1年に4回となりました。その後、聖書では命じられていませんが、この当時のユダヤ人は年に4回以外にも、毎週2回、月曜日と木曜日に断食をしていました。

断食は悔い改めのための行いです。断食をして胃の中を空にするように、心の中の自分の思いや罪を出して空にして、主の御心を求めます。断食をしても悔い改めが伴なわないならば無意味です。断食はあくまでも手段であって目的ではありません。洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えていましたので、ヨハネの弟子たちは悔い改めである断食を大切にしていました。

ファリサイ派は自分たちの習慣を大切にしていました。背景の違いはあってもユダヤ人にとって断食は大切なものでした。ただこのときに洗礼者ヨハネは既にヘロデ王に捕らえられていたようです。ヨハネが一緒にいれば、弟子たちがファリサイ派と一緒になって主イエスに質問をするようなことはなかったはずです。

ファリサイ派は6節では心に中で不満を抱いて、16節では主イエスの弟子たちに文句を言い、今度は主イエスに直接に文句を言い、エスカレートして行きます。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

自分たちの習慣を大切に思うファリサイ派の気持ちも分かります。断食をしないことは、とても非常識で不信仰に見えたのだと思います。しかしどんなことでも、聖書に書かれていない自分たちで作った習慣を、自分たちが行うのは良いですが、他の人に押し付けることはしない方が良いでしょう。

2、花婿
主イエスは質問に答えて「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」と言われました。 このお答えは、マタイ22:2で主イエスが、「天の国は、ある王が王子のために婚礼の祝宴を催したのに似ている。」と言われるとおりに、神の国が婚礼の祝宴に譬えられていることに基づきます。花婿は主イエスで花嫁は教会です。

そこでは盛大な祝宴が開かれて祝われます。主イエスが1:15で、「神の国は近づいた。」と言われたとおりに、神の国は既に始まりました。花婿である主イエスが一緒におられるときは祝宴ですので、婚礼の客である徴税人や罪人と食事をして祝います。お祝いの祝宴のときに断食はできません。

ユダヤの社会では婚宴は1週間行われますが、その間は例え断食の日であっても、断食の義務はありませんでした。この後に聖餐が行われますが、断食の意味である悔い改めは聖餐に備えて、聖餐の前に行います。聖餐の中で悔い改めの断食をしてしまったら、聖餐に参加できません。

主イエスは断食、そのものを否定されたのではありません。花婿が取り去られる日が来るので、その日には、彼らは断食をすることになります。それは主イエスの十字架の死から復活までの期間、また主イエスの召天からペンテコステまでの期間です。

それ以外の期間でも新約聖書の中で主イエスの弟子たちが断食をしている記事はあります。しかし花婿である主イエスは、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と約束されたインマヌエルの神です。

花婿である主イエスが共にいてくださるので断食をする必要はありません。その意味で現在では教会として断食を行うことはありません。ただ祈りに集中するために断食を行うことはあっても良いものです。ただ断食をすれば、それによって祈りの効果が上がるということはないと思います。

3、継ぎ切れ
今日の聖書箇所は短いものですが、3つの話があります。一つ目は、18~20節の断食と花婿についてで、二つ目は布の継ぎ切れについてです。3つの話は一見すると、ばらばらの話のような感じもしますが、神の国が婚宴であることに関わるものです。

マタイ22:11、12では、神の国の祝宴に礼服を着ていない者が一人いて問題になりました。現代では古い服に新しい布を縫い付けるまでして使うことはほとんどなさそうです。ファッションとして敢えてする人はいるかも知れません。しかし祝宴の礼服ですと殆どなさそうです。

ただ古い服に真新しい布切れを縫い付けると、真新しい布は濡れると縮み、古い服の布より強いので、古い服を引き裂き、破れはもっとひどくなってしまいます。これは事実であって誰も反論の余地の無いものです。しかしここで主イエスは継ぎ当てをするための家庭科の知恵を教えている訳ではありません。

主イエスが意図されている霊的な意味はどのようなことなのでしょうか。婚宴である神の国に入るためには、マタイ22:12にありますように礼服を着る必要があります。しかしこの当時のユダヤ教という古い服は、御心から離れて人が作った規則が中心となり、形式的になってしまい綻びが多くあります。

そこに真新しい布である主イエスを縫い付けても、反って古い服であるユダヤ教を引き裂いて、破れはもっとひどくなります。継ぎ当てでの部分的な修繕は逆効果です。ではどうしたら良いのでしょうか。使徒パウロはローマ13:14で、「主イエス・キリストを着なさい」と命じます。

根本的に新しく生まれ変わる必要があります。旧約聖書を正しく理解していれば、救い主が来られて救いが完成することが預言されています。それで継ぎ当てをするのではなく、真新しい主イエス・キリストを着る必要があります。ファリサイ派の人々は、この話を聞いてどのように思ったのでしょうか。

4、ぶどう酒と革袋
また祝宴にはお祝いのぶどう酒も付きものです。当時、ぶどう酒等の飲み物は動物の革袋に入れられました。山羊等の革を丸はぎにして使っていましたので、動物の原型のままです。革の隙間から水分が蒸発して気化熱を奪うので、中の飲み物の温度が上がらないという利点があったようです。

新しいぶどう酒は発酵しますので、発酵の膨らむ圧力が革袋に掛かります。新しい革袋は柔らかくて伸び縮みしますので、新しいぶどう酒を入れられます。しかし古い革袋は硬くて伸びませんので、新しいぶどう酒の発酵の膨らむ圧力に耐えられずに破れてしまいます。

そんなことをすれば、ぶどう酒も革袋も駄目になってしまいます。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものです。この話も当時の人々にとっては当たり前の話であったことでしょう。これもぶどう酒と革袋の知恵を教えている訳ではありません。

5、新しい革袋
古い服、古い革袋とは、神の国に入るのはユダヤ人で律法を守り、週に2回、断食をしている人という考え等です。古い服に縫い付けたら引き裂く真新しい布、古い革袋に入れたら破る新しいぶどう酒は神の福音です。それは主イエスを信じれば徴税人でも罪人でも救われて神の国に入るという革命的な福音です。

実際に前の段落で、主イエスや弟子たちと神の国の婚礼の祝宴のようなところにいたのは、徴税人や罪人たちでした。古い服、古い革袋のような宗教的なユダヤ人には、徴税人や罪人と一緒に食事をするなど考えられないことです。ヨハネの弟子たちでさえ受け入れられずに、ファリサイ派の人々と同じ側にいたほどです。

3つの共観福音書では前回のレビの召命の記事の直ぐ後に、この新しい革袋の話が書かれています。それはレビは新しい革袋の一つということです。レビは汚れた徴税人ですので礼拝に参加することは出来ません。

ユダヤ人の宗教的な習慣に関わっていなかったというより、関わることができませんでした。レビはその意味で真新しい布であり、新しい革袋です。主イエスの革命的な福音を、他のユダヤ人よりも柔軟に受け入れることが出来たことでしょう。1:16~20で4人の漁師を弟子にしたのも同じ理由からと思われます。

ただ主イエスの福音は、きちんと見れば旧約聖書に預言をされているとおりですので、冷静に見れば預言の成就であることが分かるはずです。ただ自分たちの習慣や考え方で、こちこちに硬くなってしまって古い革袋となってしまった人たちには、主イエスを受け入れることが出来ません。

そしてファリサイ派の人々の古い革袋は、新しいぶどう酒である主イエスに対する怒りにより、主イエスを十字架に付けて殺し、新しいぶどう酒である主イエスの血が流れ出ることになります。それは自分たちも破けて、世界中に散らされることになります。

このときに、新しいぶどう酒である福音は、初めは弟子たちという新しい革袋に入れられました。そしてキリスト教会という新しい革袋になりました。しかしそれは約2千年前の出来事です。それからキリスト教会は新しい革袋のままに柔軟性を保っているのでしょうか。

約5百年前には宗教改革が起こって、プロテスタント側から言いますと、プロテスタント教会という新しい革袋が出来て現代に至っています。それでは現代のプロテスタント教会は新しい革袋なのでしょうか。教会というのは言葉の定義からもクリスチャンの集まりですので、一人一人のクリスチャンが新しい革袋であるかが問われます。

初めは新しい革袋でも、人間が作る制度は古い者に心地良いようになって行って、新しい者には古臭く感じるようになるものです。そして古い革袋には古いぶどう酒だけが残って、新しい者は継ぎ足されなくなって行きます。新しいぶどう酒を入れたら古い革袋は破けてしまいます。

教会もそこに集うクリスチャンも時間が経って来ると果たして古い革袋にならざるを得ないのでしょうか。ぶどう酒と革袋は共に「新しい」という形容詞が使われていますが、ぶどう酒の「新しい(ネオス)」は時間的な意味の新しさで、革袋の「新しい(カイノス)」は質的な意味の新しさを意味します。

新しいぶどう酒である福音は、時間的な新しさである新鮮さを保って、いつも生き生きとして力強いものです。私たちは何でも新しいものを受け入れれば良いのではなく、福音の本質は変わりません。しかし生命力に溢れる福音はいつも新しさを持っているものです。

その力強い福音を信じて受け入れているクリスチャンや教会は、新しい革袋としていつも質的に新しく柔軟性を持つ必要があります。これはクリスチャンが年齢的に若い方が良いとか、教会も新しい方が良いということではありません。時間的な新しさではなく、質的な新しさです。

高齢者のクリスチャンや古い教会でも、新しい革袋としてとても柔軟性を持っている人や教会もあります。その逆に若いクリスチャンや新しい教会でも古い革袋のように柔軟性が無いこともあり得ます。どうしたら新しい革袋で居続けることが出来るのでしょうか。

ローマ12:2は、「心を新たにして自分を造り変えていただきなさい」と命じます。そしてそのためには、ローマ12:1で、「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」と言います。

毎週の礼拝で断食が意味する悔い改めを行いなさいということです。教会は断食は行いませんが、断食の霊的な意味である悔い改めは、少なくとも毎週1回は礼拝で行います。私たちは新しいぶどう酒である主イエスの十字架の血によって、新しい革袋とされる者です。この恵みに感謝して、聖霊に導かれ、毎週の礼拝で悔い改めを行い、いつも新しい革袋として、新しいぶどう酒を受け入れましょう。

6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは誰でも自分たちが行って来たことや自分たちが作って来たことに拘ってしまい易いものです。しかし主イエスの十字架による福音は、いつでも新しく力強いものです。
主イエスによって救われ新しくされた者、される者として、聖霊の力によっていつも新しい革袋とさせられ、新しいものに対応して、受け入れる者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。