「安息日の主」

2025年1月12日礼拝式説教  
マルコによる福音書2章23~28節
        
主の御名を賛美します。

1、麦の穂を摘む
ある安息日に、主イエスが麦畑を通って行かれました。安息日に何のために麦畑を通られているのでしょうか。3つの共観福音書では、次の3:1~6で、安息日に会堂に入って手の萎えた人を癒やす記事が続いています。マルコとマタイによる福音書によると、はっきりとは分かりませんがその会堂に行くために麦畑を通っているように思われます。

しかしルカによる福音書では二つの記事は、ほかの安息日の出来事とは言っています。この当時の麦畑等は帯状に細長く伸びていて、畑の間が畦道のように人が通る道になっていたようです。安息日は礼拝をする日ですが、今日の個所が礼拝の前のことか後のことかははっきりとは分かりません。

弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めました。お腹が空いていたのでしょう。マタイとルカによる福音書によると摘むだけでなく食べています。ルカによると、「穂を摘み、手でもんで食べた。」とあります。しかしここで問題なのは摘むことであり、食べたかどうかは問題ではないのでマルコは書いていないようです。因みに主イエスは摘んでおられません。

そこにファリサイ派の人々がいました。安息日ですので会堂に向かう道か帰る道で一緒になったと思われます。そして主イエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」と言いました。

「御覧なさい。」とは言っていますが、そのニュアンスは、「そら、見たことか。」といった感じでしょうか。「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」というのは単なる質問ではなく、主イエスを非難するためです。それは、弟子たちが律法を破る現場を見たぞと、丸で鬼の首を取って勝ち誇ったような言葉です。

安息日には麦の穂を摘んではならないのでしょうか。安息日の刈り入れは禁止されています(出エジプト記34:21)。そこでファリサイ派は麦の穂を摘むことを刈り入れと考えたようです。安息日は元々、制定された創世記2:2で、神が六日間で天地を創造されて、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた日です。

安息日は「休む」と言う意味で、仕事を休む日です。自分が食べる分の麦の穂を手で摘むことを、安息日に禁止されている刈り入れの仕事だと言って非難するのは、どうかと思います。十戒の第八戒で、「盗んではならない。」とありますが、「隣人の麦畑の中に入ったなら、手で穂を摘んでもよい。」(申命記23:26)と律法はとても大らかです。今日の聖書箇所では安息日という言葉を5回使って強調しています。

2、供えのパン
ファリサイ派の非難に対して、主イエスは3つのことを答えられました。一つ目はダビデの例です。
まず、「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。」と質問に対して質問で返されます。

ファリサイ派が一度も読んだことがないはずがありません。聖書を読んでいても、その御心を理解していないのかという痛烈な皮肉です。「エブヤタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司たちのほかには食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」と問います。

これはサムエル記上21章で、ユダヤ人の尊敬するダビデが、祭司だけが食べられる聖別されたパンを部下たちと食べたことです。ダビデが行ったことに対してその後に神からは何もお咎めはありませんでした。それは認められたということです。

これはダビデが普通のときに行ったことではありません。ダビデがまだ王になる前に、ダビデに嫉妬したサウル王から命を狙われて避難をしている緊急事態のときに起こったことです。ダビデは食べるために祭司のもとに行ってパンを求めました。

しかし、「その日はパンを取り替えて焼き立てのパンを備える日で、普通のパンがなく、主の前から取り下げた供えのパンしかなかった」(サムエル記上21:7)と言いますので安息日です。そこで祭司もダビデの求めに応じて、聖別されたパンをダビデに与えました。

しかしこのダビデの例は、特に安息日に限ったことではなく、供えのパンはいつでも普通は祭司たちのほかは食べてはならないものです。ここで主イエスが意図されていることは、人が命を保つためには、例え律法を破ってでも咎められない程に、神は人を愛されているということです。

ましてや、弟子たちの行いは、ファリサイ派の考えからは律法違反となるかも知れませんが、神の目からは問題はありません。実際、神である主イエスは弟子たちに対して何も問題があるとは言っておられないどころか、弁護をされています。

3、安息日は人のために
主イエスは二つ目のこととして、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。」と言われます。安息日は神が創造の業を終えて休まれた日です。神のかたちに造られた人も、同じように安息日には休んで憩います。安息日は人が安息するための日です。

弟子たちが空腹であったら安息することなど出来ません。ファリサイ派はとても真面目な人たちです。聖書だけですと普段の生活の細かいところが分かりませんので、ユダヤ教にはミシュナーという律法の註解書のような物があります。そこに安息日にしてはならないことが39個挙げられています。

それは、家事、運転、買い物、電気の使用、火の使用、書く、料理等で、更に39個のそれぞれに6つの詳細があって、合計234の禁止事項があります。このような膨大な数の禁止事項の中で本当に安息をして休んで憩えるのでしょうか。

例えば寒い地域に住んでいる人が火を使えずに、寒い中で冷たい食べ物と飲み物で過ごして、本当に安息できるのでしょうか。安息日の本来の目的である休むことが見失われているような気がします。それでは人が安息日のためにあるようで、本末転倒です。

安息日の曜日について、旧約聖書では土曜日ですので、ユダヤ教では土曜日です。キリスト教では主イエスが十字架の死から日曜日に復活されたことを記念して、日曜日を主の日として礼拝を行うようになりました。そして安息日も日曜日に移行するようになりました。

キリスト教の中には旧約聖書で土曜日が安息日であるから土曜日に礼拝を行うというところもありますが、安息日の曜日は拘らなくても良いように思います。牧師にとっては日曜日は奉仕であるとはいっても、明らかに働く日です。それで休んで安息するのは月曜日になります。

他の仕事でも仕事の都合上で、どうしても日曜日に休めないことがあるかも知れません。その場合には自分の休みの日が安息日になります。

安息日は人が休むことが目的で何よりも優先されることです。安息日に神の御心である休むことよりも、人が作った禁止事項等を優先することは、人が作った禁止事項を偶像化することです。十戒の第二戒に、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない。」とありますとおりに、その方が律法違反になってしまいますので注意が必要です。

ユダヤ教の中にも色々な宗派がありまして、宗派によって決まりの違いはあるようです。ただ現代でも安息日にはトイレットペーパーを切ることも禁止のために、切ったペーパーが置いてあるところもあるそうです。

また、エレベーターのボタンを押すことも禁止のために安息日には階段を使って上り下りしたり、エレベーターが自動で各階止まりになっていることもあるようです。そこまで来ると、ただ単に自己満足のためだけに禁止事項を守っていて、安息日の本来の休むという目的から大きく外れてしまいます。

しかし誰でも多かれ少なかれファリサイ派的な拘りを持っているものです。安息日に立ち止まって、神と向き合って悔い改め、自分の拘っていることが本当に神の御心に適うことであるのか、聖霊の導きを求める必要があります。

変な拘りを自分一人で行っているのならまだしも、その拘りを周りの人にも強勢するようになると周りの人に迷惑を掛けて不幸にし、周りの人と自分との間に軋轢を生んで行きます。結果として、自分も追い込まれて不幸になって行き、全ての人を不幸にすることになります。ファリサイ派の姿を反面教師として学んで行きたいと思います。

4、安息日の主
主イエスは三つ目のこととして、「だから、人の子は安息日の主でもある。」と言われます。「人の子」という言葉は、主イエスがご自身を指すときに使われる表現です。敢えて自分から救い主とは言われません。

主イエスは、権威ある新しい教えを語られ(1:27)、病人を癒し、多くの悪霊を追い出し(1:34)、罪を赦す権威を持つ(2:10)、主であるだけではありません。普通の人であるダビデでさえ、非常事態のときには律法で祭司以外には食べられない、供えのパンを食べさせました。

ダビデの子である主イエスは、ダビデより大きな権威を持ち、安息日の主でもあると言われます。それは安息日においても最高権威者であるということです。これは事実ですがファリサイ派は、どのように受け止めたでしょうか。

安息日は主なる神が1週間を守ってくださったことを感謝し、主を礼拝し仕える日です。安息日は心を主に向ける日であって、人の作った決まりに縛られる日ではありません。安息日が現在も有効であると不都合だと考えて、安息日は廃止されたと言う人がいます。

しかし安息日を否定することは、安息日の主であるイエス・キリストを否定することになり、キリスト教ではなくなってしまいますので、惑わされない注意が必要です。

安息日といいますと、ユダヤ教に234個の禁止事項がありますように、何かをしてはならない消極的な日のようにイメージをしてしまうかも知れません。しかし神が安息日を制定されたときに(創世記2:2)、「神は第七の日を祝福し、これを聖別された。」とありますように祝福の日です。

休みの日には、レクリエーションをして楽しんだりします。レクリエーションは英語では、recreation と書いて、直訳すると「再創造」です。一般的には、娯楽等を行って、仕事や家事等の疲れを癒やして休み、安息することです。

休むことも大切ですが、クリスチャン的には、ただ休むだけではなく、神を礼拝して、聖霊に満たされて新たにされるのが、本当のレクリエーションでしょうか。その上で、神が造られた自然に触れたり、家族や友人等とレクリエーション等をして楽しむことも良いと思います。

この世で生活をして行く中には色々な課題等もあります。しかし安息日の全てを通して、神が与えてくださっている恵みを覚えて感謝し、神の祝福を楽しみ、新しい1週間を歩む力をいただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。神は六日間で天地を創造され、第七の日を休まれて安息日とされました。そして安息日を祝福し聖別されました。私たちは主イエスの十字架によって贖われ救われる者です。安息日の主を礼拝することによって聖霊に満たされ、ファリサイ派的な拘りから解放され、祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。