「善を行い、命を救う安息日」

2025年1月19日礼拝式説教  
マルコによる福音書3章1~6節
        
主の御名を賛美します。

1、片手の萎えた人
主イエスは再び会堂に入られました。これは今日と同じ安息日のことですので、主イエスも他の人々も皆、神を礼拝するために会堂に来ています。そこに片手の萎えた人がいました。この人は原語の性別を見ますと男性ですが、敢えて「人」と訳して読む人が性別に囚われないようにしているようです。

並行記事のルカ6:6では、「右手の萎えた人」と書かれていますので、右利きであれば更に不自由です。「片手の萎えた人」と聞きますと、可哀そうであると思うかも知れませんが、多くの人は自分には直接には関係のないことと感じてしまいがちです。

しかし聖書で「手」はその人自身や力を指します。日本語でも、「人手が足りないとか、手を貸して欲しい」というように、力の意味で「手」と言います。その意味で考えますと、「片手の萎えた人」の霊的な意味は、力の弱さを覚えている全ての人と言えます。片手の萎えた人は、礼拝に出席はしていますが、安息日に心から喜ぶことの出来ない思いを抱えていたと思われます。

2、ファリサイ派
そこにある人々がいました。この人々は6節からファリサイ派の人々と分かります。安息日は神を礼拝する日です。しかし彼らは神を礼拝することとは全く別の目的を持って会堂に来ています。それは主イエスを訴えるためです。そのために、安息日にその人を癒やされるかどうか、うかがっていました。「うかがう」という言葉は、「悪意を持って見守る」という意味もありますので、粗探しです。

今日の個所は2章から始まった、ファリサイ派と主イエスの対立の第一部の最後の場面です。ファリサイ派は、1回目は心の中で主イエスを非難し(2:6、7)、2回目は弟子たちに質問し(2:16)、3、4回目は主イエスに質問しました(2:18、24)。

その度に主イエスに反論され、何か言いたいことがあるのであれば直接に言えば良いのですが、何も言えません。それで訴えることを決めました。今は訴えるための証拠集めです。神を礼拝する安息日に一体何をしているのでしょうか。

私たちも安息日に教会に集まります。その第一の目的は神を礼拝するためです。しかしそれ以外にも目的はあっても良いものです。あの人に会って、この話をしようとか、これについて話し合おうというようなことです。しかし人の足をすくうために、悪意を持ってうかがうことは、安息日の会堂で最も相応しくないことです。

3、かたくなな心
主イエスはファリサイ派の魂胆を全てご存じです。全てを承知の上で、主イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われました。その人は恐らくは会堂の隅に座っていたことでしょう。主イエスはその人を会堂の裏に連れて行って、人に隠れてこっそりと癒そうとはされません。

それは安息日の主として、安息日とはいかなる日であるのかを、きちんと伝えるためです。そして、「安息日に律法で許されているのは」と言われます。主イエスは安息日をないがしろにしているのではなくて、安息日の律法にきちんと基づいて、その御心を問われます。

そして、「善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と問われます。これは考えるまでもなく、答えは明白です。しかし彼らは黙っていました。心の中で何を考えていたのでしょうか。主イエスは怒って彼らを見回し、そのかたくなな心を悲しみました。

今日の個所も中心構造と思われますが、主イエスを訴えようとうかがうファリサイ派と、そのかたくなな心を悲しむ主イエスは好対照です。ファリサイ派のかたくなな心は何を考えていたのでしょうか。ファリサイ派の作った規則では、安息日に癒しを行うことは、命の危険のある場合を除いて禁じられていました。これは神が命じられた律法ではありません。あくまでもファリサイ派の作った規則です。

そこでファリサイ派の考えでは、片手の萎えた人は命に別条がある訳ではないので、安息日以外に癒すのであれば良いのですが、安息日に癒すのは律法違反であるとしています。癒しは今日ではなく明日に行えば良いという考えです。

安息日は神が創造の業を完成されて休まれ、祝福し聖別された日です。ファリサイ派にとって、その人の癒しは明日でも良いかも知れません。しかし片手の萎えた人は、そのままの状態で、安息日に本当に心から休み、神の祝福を喜ぶことが出来るでしょうか。

ファリサイ派は自分たちで作った屁理屈の規則による自己満足だけを考えて、他の人を気遣う心を見失っています。「善は急げ」という言葉がありますが、それは安息日にも善を行うべきということから来ているのでしょうか。

憐れみ深い主イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われました。癒しには色々なパターンがあります。今回は主イエスが、「伸ばしなさい」と命じられて、初めにその人が主イエスの言葉に信頼をして手を伸ばし始めました。すると手は元どおりになりました。その人も神の御業に参加しています。ただ「元どおりになった」は受身形ですので癒しは神の御業です。

私たちも体が萎え、心が萎えてしまうこともあります。そのようなときにも主は、「恐れるな」と語り掛けてくださいます。そのときに私たちが主に信頼をして、聖霊の導きに従って、体や心を伸ばそうとするなら、主が癒してくださり平安を与えてくださいます。

4、敵の敵は味方
ファリサイ派の人々は出て行きました。これは1節で主イエスが会堂に入られたのと対照的です。「会堂(シナゴグ)」は「人の集まり」という意味です。主イエスは人の集まりに入って行かれます。しかし独善的なファリサイ派は人の集まりから出て行きます。

そして、すぐにヘロデ党の人々と一緒に、どのようにして主イエスを殺そうかと相談を始めました。このことに初めは驚いた人たちも多かったと思います。それはファリサイ派は本来はヘロデ党と犬猿の仲だからです。ヘロデ党について詳しくは書かれていませんが、領主ヘロデを支える政権与党ですので、この世のしがらみに塗れた政党と考えられます。

一方のファリサイ派はゴリゴリの律法主義、原理主義的ですので、水と油のような関係で当然、対立します。しかし、そこに共通の敵が登場しました。主イエスです。政権与党のヘロデ党にとって、新しいユダヤ人の王と言われる主イエスは、自分たちの地位を脅かす政治的に危険な人物です。

ファリサイ派にとって主イエスは、自分たちが律法から作った規則や伝統を無視して、自分たちの地位を脅かす宗教的に危険な人物です。それぞれの動機は異なりますが、主イエスが邪魔であるということで一致します。そこに、「敵の敵は味方」という理論が働きます。

この「敵の敵は味方」という理論は、時代を超えて、地域を超えて色々なところで見られるものです。
アラブの国々は普段は仲が良くなくても、共通の敵であるイスラエルに対抗するときには一致したりします。この理論はあらゆる人の集まりで見られる法則です。

ヘロデ党とファリサイ派とそれぞれの特徴は異なりますが、手を組むことによって、その動機が悪に満ちていることで、共通の特徴が明確になります。極悪同盟の結成です。極悪同盟が結成されると、それまでとは異なる次のステージに進むことになります。

それは、これまでのヘロデ党とファリサイ派のように、対立をしているときには、ある種の牽制機能が働くからです。お互いに余りに変なことを言ったり、したりすると、対立相手から文句を言われるので、お互いに抑えていた部分があります。

しかし極悪同盟の結成によって、そのような牽制機能が働かなくなります。またそれだけではなく、お互いに悪を煽り合いますので、悪が加速して暴走するようになります。その結果、どのようにして主イエスを殺そうかと相談を始めました。

5、安息日の律法
主イエスは、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と問われました。ファリサイ派は、安息日の正にその日に、律法で許されていない、人を殺すという悪を行う相談を始めました。

ファリサイ派はどのような理由で主イエスを殺そうと思ったのでしょうか。二つの理由が考えられます。一つ目は、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」(2:10)、「人の子は安息日の主でもある」(2:28)と言われ、ご自分を神であると主張し、神を冒涜したと思われたことです。

しかしこの個所では二つ目の理由の方が大きいと思われます。律法で、安息日を破る者は死刑と定められています(出エジプト記30:15、民数記15:35)。そこでファリサイ派の言い分としては、安息日の違反を警告したにも関わらず(2:24)、それに反論をして言い訳をした(2:27、28)。更に今日も安息日を破って癒しを行ったと考えました。

それでは主イエスの、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか」という問いに対してファリサイ派はどのように考えていたのでしょうか。恐らくは、「安息日の律法を破って、悪を行おうとしているのはお前だ。だから私たちは律法の命令に従って、律法を破った者を殺すという善を行うのだ。」と考えたことでしょう。
ファリサイ派は自分たちが主イエスを殺そうと計画していることを悪とは思っていません。悪を行う者は、自分の考える愚かな考えに自分自身が騙されて、悪を善と思い込んで突き進んで行き、その先にある落とし穴が見えていません。

極悪同盟には他の悪も加わって悪が加速して行きますので、主イエスの公生涯は一般的には約3年と言われて短いものでした。極悪同盟に共通の敵である主イエスがいなくなれば、極悪同盟は元々、利害目的だけのためで、信頼関係等は初めからありませんので、解散となったことでしょう。

またそのような悪を神が見過ごされるはずはなく、イスラエルは滅ぼされてユダヤ人は世界中に散らされることになります。その意味で、極悪同盟の結成は、終わりの始まりといえます。ファリサイ派たちは、安息日に自分たちでは善を行っていると思い込みつつも、御心とは真逆の的外れのことを始めてしまいました。元々はとても熱心な人たちなだけに残念なことです。

6、善を行い、命を救う安息日
しかし私たちの救い主イエスは、私たちの命を救うために、私たちの身代わりとして十字架に付かれるという最高の善を行ってくださいました。そしてこの日曜日に復活されました。その最高の善を全ての人が信じて、命の救いに与るようにと祈るばかりです。

既に救われている人は、自分の救いを感謝し、全ての人の命の救いのために、安息日にも善を行います。ただ平日にも仕事をされている方は、日曜日にも教会に来て奉仕をすることは大変であると思います。

自分自身が信徒であったときのことを思い返しますと、思い出は美化されるのかも知れませんが、教会の奉仕は苦ではなかったように記憶しています。平日の仕事とは全く違う内容でもあり、仕事で身に着けたことを教会で生かし、教会で学んだことを仕事に生かして、楽しみつつの奉仕であったことを感謝しています。

神は教会での奉仕を祝福し、豊かに報いてくださいます。命を救うというのは主イエスを信じて永遠の命を得ることだけではありません。主イエスを信じて永遠の命を得ていても、この世の困難のために生き生きと生きる命が萎えてしまうようなこともあります。

そのような人を救い、必要な人に善を行うことは、主イエスによって救われる者に最も相応しい安息日の過ごし方です。お互いに支え合い、善を行い、神が祝福される、喜びの安息日とさせていただきましょう。

7、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちはファリサイ派のように自分の考える正義に拘ることに陥り易いものです。聖霊の導きに従って、まず神を礼拝し、御声を聴き、自分の思いではなく、御心を行う者となさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。