「福音宣教」 

2026年6月7日礼拝式説教 
マルコによる福音書16章9~20節
        
主の御名を賛美します。

1、 不信仰とかたくなな心
15:42~16:8はイースターに御言葉を聴かせていただきましたので、今日の内容は前回から少し飛びます。16:9から後ろは写本によって含まれていないものがありますので括弧が付いています。週の初めの日の日曜日の朝早く、主イエスは復活されて、まずマグダラのマリアにご自身を現されます。

マグダラのマリアは以前主イエスに七つの悪霊を追い出していただいたことを心から感謝したのでしょう。その後は主イエスに熱心に従い、墓にも訪れ、女たちの中でも初めに名前が出されます(15:40、16:1)。主イエスがご自身を現されたマリアは、勿論、主イエスの復活を信じます。

そして、マリアは喜んで、主イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところに行って、復活の喜びを知らせます。しかし、彼らは、主イエスが生きておられ、マリアがお姿を見たと聞いても、信じません。

その後、マリアから話を聞いた彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、主イエスが別の姿でご自身を現されます。これはルカ24:13~35でエマオへ向かっていて、二人の内の一人はクレオパです。「別の姿」の意味は良く分かりませんが、マリアには、「園の番人」(ヨハネ20:15)に見えたので、二人には、「旅行者」の姿に見えたのでしょうか。

主イエスがご自身を現された二人は主イエスの復活を喜び、信じて、この二人も行って残りの人たちに知らせますが、彼らは二人の言うことも信じません。彼らは主イエスの復活をマリアとこの二人からから聞いても信じません。この二つの話の要点を動詞で表しますと、「現わされた」→「知らせた」→「信じなかった」で全く同じです。

これは現代でも同じです。主イエスがご自身を現される人は、喜んで主イエスを信じます。そして、他に人に知らせますが、知らされる人は他の人から話を聞くだけでは信じません。

その後、十一人が食事の席に着いているとき、主イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになります。不信仰とかたくなな心とはどのようなものでしょうか。それは、復活された主イエスを見た人々の言うことを、信じないことです。
12弟子の一人であるトマスは堂々と、「あの方(主イエス)の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」(ヨハネ20:25)と言っています。しかし主イエスはそのようなトマスにも現れてくださいました。

自分の目で見なければ信じないと、人間の不信仰とかたくなな心を神は良くご存じです。それで神はペンテコステに聖霊を遣わしてくださり、聖霊によって主イエスの復活の確証を私たちに与えてくださいます。

2、福音宣教
主イエスがご自身を現された十一人は、勿論、主イエスの復活を信じます。それから、主イエスは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と福音宣教を命じられます。主イエスがご自身を現されて、信じる者には福音宣教が命じられます。

福音宣教と言いますが、「福音を宣べ伝える」ことを漢字的に短く表しますと、福音宣伝です。しかし、宣伝と言いますと前はテレビのコマーシャルのことを指していたりと、何かイメージが違う感じがしますので、福音宣教とさせていただきました。

福音宣教は、神によってすべての造られたものに、神の福音、神からの良い知らせを宣べ伝えることです。神によって造られたものが苦しんでいるのを、すべてを造られた神が憐れまれ、救いの道を開いてくださいました。造り主が造られたものの救いに責任を持ってくださいます。

福音は、神が私たちのために遣わされた救い主イエス・キリストを信じて洗礼を受ける者は救われるという、シンプルなものです。ただ人間には不信仰とかたくなな心がありますので、信じることができるように聖霊が助け導いてくださいます。

しかし、その最後の砦とも言える聖霊の働きを拒んでしまいますと救われようがなくなってしまいます。一人一人、それぞれに救いのタイミングは違います。ただ、聖霊の働きを拒み続け、信じない者は罪に定められることになってしまいますので、救いの機会を逃さないことも大切です。

3、伴うしるし
信じる者にはしるしが伴ないます。しるしについて大切なことが二つあります。一つ目は、しるしは信じる者自身の力によるものではなく主のお働きです。「主も弟子たちと共に働」かれ(20節b)、「イエスご自身も、・・・彼らを通して、・・・福音の言葉を広められた」(結び二)からです。
ところで、「結び 二」は「結び 一」に続く内容ではなく、写本には、8節の後に、「結び 一」があるものと「結び 二」のものがあり、「結び 二」は8節に続く内容のようです。

二つ目は、「彼らの語る言葉にしるしを伴なわせることによって、その言葉を確かなものとされた」ことです。この当時は新約聖書もありませんので、しるしは福音の言葉を裏付ける証拠としての意味がありました。しかし、これらのしるしは聖書に書かれていて、現代の私たちは聖書によってしるしを知ることができます。

見た人々の言うことを信じないことを不信仰とかたくなな心として主イエスはおとがめになられました。そのことから、このときのしるしが現代でも全く同じかたちで伴うかは慎重な検討が必要です。

しるしの一つ目は、「彼らは私(主イエス)の名によって悪霊を追い出し」です。12弟子が遣わされたときに悪霊を追い出しました(6:13)。現代においても悪霊の働きとしか思えないようなこともあります。しかし何でもかんでも悪霊のせいにしてしまって、人間の罪から目を背けてしまうことは健全な信仰ではありません。

悪霊の働きと人間の罪は密接に関わっていることもあります。悪霊の働きは過大評価することは問題があり、逆に過小評価することも問題で、バランスが大切です。

二つ目は、「新しい言葉を語る」ことです。「新しい言葉」とはどのような言葉のことでしょうか。大きく四つのことが考えられます。一番は、使徒2:4の初めのペンテコステで語られた、「他国の言葉、外国語」です。二番は使徒10:46等で語られる「異言」で、神と異言の賜物のある人にだけ理解されるものです。

初めの二つの言葉はすべての人が理解できるものではありません。それに対して後の二つは、すべての人が理解できる言葉で、三番はしるしを伴なう言葉ですので「預言」と言えます。四番は、永遠の救いに関する朽ちることのない「福音の言葉」です。

福音の言葉とは、先程の、「信じて洗礼を受ける者は救われる」、「永遠の命」、「復活」等です。四つの中では、後半の二つの言葉の方が大切なものです。

三つ目は、「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず」です。「手で蛇をつかみ」のようなことで、毒蛇がパウロの手に絡みついたが何の害も受けませんでした(使徒28:3~5)。毒を飲むことは聖書には書かれていませんが、他の書物に書かれています。
四つ目は、「病人に手を置けば治る」です。使徒9:17等に書かれています。信仰による癒しである、神癒は現代でもあることです。ただこの当時は医療が未発達でしたので、手を置く以外の治療方法等があまりなかったのかも知れません。

現代では医療が発達していて、すべてのことは神の御手の中にあり、神はあらゆるものを用いられます。医療を用いることも御心に適うことであり、同時に手を置いて祈ることは信仰者として相応しく思われます。信じる者にはこのような四つのしるしが伴ないます。

信じる者には福音宣教が命じられると聞きますと、信じて信仰を持つのは良いけれど、私は一人で信仰を持って、他の人とは関わらずに静かにしていたいと感じる方もおられるかも知れません。一人一人賜物が違いますし、信仰状態の変化も一人一人違います。

しかし神は一人一人が自分に合うかたちで福音宣教を担うことを期待されています。年齢や健康状態により福音宣教の前線での働きは担えない方もおられると思います。しかし祈りによる後方支援はいつになっても担うことができます。

しるしは福音宣教のための武器ともなりますが、どちかと言いますと武器というよりも、伴うしるしによって神への信頼を深めて信仰を成長させます。神は全ての信仰者が何らかの福音宣教に関わることによって、信仰者を成長させ、祝福をお与えになられることを願っておられます。

まず、聖書に書かれているしるしを通して、また聖霊の導きに従って、主イエスの十字架と復活によって完成された福音を信じる者とさせていただきましょう。そして福音宣教の何を自分が担うことが御心であるのか祈り求めましょう。そして与えられる宣教を喜び担い、祝福の道を歩ませていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスの弟子たちは、復活された主イエスに出会った人たちの話を聞いても、自分が会うまでは信じることが出来ませんでした。それは私たちも同じです。まだ信仰を持っておられない方に、神ご自身を現され、信じることができますようにお導きください。また信仰者には一人一人の御心に適う福音宣教をお示しくださり、祝福の道を歩ませてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。