「主を知るため」 

2026年6月28日礼拝式説教
ヨシュア記 3章1~17節
        
主の御名を賛美します。

1、進むべき道を知るため
前回、ヨシュアはエリコに偵察に行った二人の斥候から、「主はあの地をことごとく私たちの手に渡されました」という報告を聞きました。そこでヨシュアは朝早く起き、イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、ヨルダン川に着いてから三日間を過ごします。三日間は何をしていたのでしょうか。

ヨルダン川を渡る日は、「第一の月の十日」(4:19)で、太陽暦では4月頃で、雪解けと春の雨で、水が岸まで満ちています(15節)。エリコ近くのヨルダン川の川幅は現在は普通は20~30mです。この時代に橋はありませんので、斥候の二人は若者で泳ぐ等して渡ったことと思われますが、今回は子どもや高齢者もいます。

どのように川を渡るのか、主の命令を待っていたことと思われます。主は五つの命令を命じられます。一つ目は、民の役人たちが民に命じるもので、これは三日たってから、初めは主からヨシュアに命じられ、その後にヨシュアから役人を通して命じられたと思われます。

役人の民への命令は二つで、一番目は、「主の契約の箱と、それを担いだレビ人である祭司の後に続きなさい」です。「主の契約の箱、箱、契約の箱、主の箱」と言い方は少し違いますが、11回言って強調しています。主の契約の箱にはモーセが神から授かった十戒を記した石板が入っていて、神がそこにおられる臨在を表します。

役人の命令の二番目は、「箱との間には二千アンマ(約9百m)ほどの距離をとり、それ以上近づいてはならない」です。その理由は、「あなたがたの進むべき道を知るため」です。ヨルダン川を渡る(渡河)時に、主の契約の箱と担ぐ祭司が先頭に行くことは、神が先立たれて、民がそれに従うことを表します。

その時に、イスラエルは少なくとも二百万人はいると思われますので、主の契約の箱に近づき過ぎると、契約の箱が人々に紛れてしまってどちらに進んでいるのか分からなくなってしまいます。二千アンマほどの距離をとっていますと、進むべき道が分かり易くなります。高速道路を運転をする時には、道路の進行方向を知るために少し先の方を見るのと似ているかも知れません。

そして、「あなたがたはその道を、今までに一度も通ったことがないからだ」と言います。主が進まれ、私たちを導かれる道は、時に、これまでも一度も通ったことのない、驚くべき道であることがあります。ただ信頼して付き従うのみです。

このことは現代においても、私たちが自分が進むべき道を知るために必要なことです。主の契約の箱が表す御心はどちらを示しているのかを良く見定めて、その後に従います。今回、「知るため」という言葉が一つのキーワードになっていますので、「主を知るため」という説教題を付けさせていただきました。

私たちが自分が進むべき道を知るためには、自分がどちらに行きたいかではなく、主がどちらに進まれるのか、主を知りその後に従います。その時に、主との距離をとって、近づき過ぎることはしません。それは自分が主の前に出ることなく、主との聖なる距離を保って従います。二千アンマは後に、ユダヤ教で安息日に歩いて良い距離になります。

2、ヨシュアの民と祭司への命令
命令の二つ目は、ヨシュアが民に命じるもので、「あなたがたは身を清めなさい」で、その理由は、「主が明日、あなたがたの中で驚くべき業を行われるから」です。聖なる主が御業を行われる時には、身を清めて備えます。具体的には衣服を洗う(出エ19:10)等がありますが、それは心を主に向けて清めていただくことの表われです。

命令の三つ目は、ヨシュアが祭司に命じるもので、「契約の箱を担ぎ上げ、民の先頭に立って川を渡りなさい」です。神に仕える祭司が契約の箱を担ぎ上げ、民の先頭に立って進み、すべてを神にある秩序に従って行います。

3、主を知るため
主はヨシュアに、「今日、イスラエルのすべての人々の目の前で、あなたを大いなる者とする」と言われます。「大いなる者」とはどのような人なのかと思いますが、次に、「私がモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、彼らが知るためである」と言われます。

ということは、「大いなる者」とは、何か大きなことをする人ではなく、主が共にいる人であり、そのことを皆が知っている人です。主が不思議な御業をされますと、私たちはその御業自体に目を奪われがちです。しかし、御業は主がその者と共にいることを皆が知るためのしるしです。

そのしるしによって、主が共にいるヨシュアを皆が信頼するためです。しるし自体に心を奪われず過ぎずに、しるしの意味に心を向けます。ここで御業のしるしの意味の一つ目は、主が新しいリーダーであるヨシュアと共にいることを皆が知るためです。

ヨシュアは主の命令に基づいて、四つ目の命令として祭司たちに、「ヨルダン川の水辺に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれ」と命じます。祭司たちは、「ヨルダン川の中に立ち止まれ」と言われても、それがどういうことを意味するのか、はっきりとは分からなかったかも知れません。

ヨシュアは五つ目の命令としてイスラエルの人々に、主の言葉を聞きなさいと命じ、「生ける神があなたがたの中におられ、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人をあなたがたの前から必ず追い払ってくださることを、次のことによって知るだろう」と言います。

御業のしるしの意味の二つ目は、生ける神があなたがたの中におられ、敵をあなたがたの前から必ず追い払ってくださることを知るためです。しるしの具体的な内容は、「全地の主である主の箱を担いだ祭司たちの足の裏がヨルダン川の水につかるや、上流から流れて来るヨルダン川の水がせき止められ、一つの堰ができるだろう」というものです。

ヨシュアは40年前にエジプトを脱出した時に、葦の海を渡る経験をしていますので、同じようなことが起こるのだと思ったことでしょう。若い世代は話には聞いているでしょうが、体験はしていないので不思議な感じでしょうか。

民はヨルダン川を渡るために天幕を出発し、命令の通りに、契約の箱を担いだ祭司たちが先頭に立ちます。そして祭司たちの足がヨルダン川の水につかるや、上流から流れて来る水が、遠く離れたツァレタンのそばにある町アダムのところでとどまり、一つの堰となりました。

4、御業のしるし
この御業のしるしについて皆さんはどのように感じられるでしょうか。私は聖書に書かれていることを信じていますが、それと同時に、自然科学で分かることは知りたいとも思います。自然科学的にはこのしるしはどのようなことが考えられるでしょうか。

この辺りの岸は石灰岩の高い断崖になっていて、川の流れで岸が削られて岩が川に崩れ落ちることが時々、起こるそうです。実際、1267年12月に約16時間、ヨルダン川の流れが止まりました。また1927年7月11日の大地震の時には少し上流で断崖が崩れ落ちて、流れがせき止められて21時間半、河床が干上がりました。

しかし、そうだからといってこの時に起きたのは単なる自然現象ということではありません。タイミング的に、祭司たちの足がヨルダン川の水につかるや、上流から流れて来るヨルダン川の水がせき止められ、一つの堰ができるというのは明らかな神の御業です。

因みに葦の海が二つに分けられた時は、主が夜通し強い東風で海を退かせ、乾いた地にしました(出エ14:21)。聖書に書かれている奇跡的な御業の中には、ある程度は自然科学的に説明のつくものもあります。しかし今回の御業もそうですが、自然科学で説明がつくからといって、タイミングも含めてすべて単なる偶然の一致ということではありません。

今回の御業は13節で、「ヨルダン川の水がせき止められ、一つの堰ができるだろう」と預言されていて、その預言がタイミング的に偶然で一致する可能性はかなり低い確率になります。そもそも自然科学で説明がつくと言っても不思議なことは多くあります。

地球の表面の7割は海ですが、いくら引力があるといっても、球体である地球の下側の海の水がこぼれないのは不思議なものです。また地球は海水に覆われていながら、その中心には千℃近いマグマが入っています。

太陽と地球の距離は約1億5千万km離れていますが、その太陽光による温度が人間が生きるのに適しているのは偶然とは思えません。時々、月を眺めることもありますが不思議な感じがします。それらのことを考えますと、聖書に書かれている奇跡の御業も起こることがあるのだろう思えるようになります。

聖書に奇跡の御業の記事がありますと、私たちはつい、そのようなことが本当に起こり得るものかということに関心を向けてしまいがちです。しかし、神の臨在や御業のしるしは今日の聖書箇所では三つのことを知るためです。

一つ目は、私たちが進むべき道を知るためです。主の契約の箱が示す御心の方向に付き従うなら、それはこれまでに一度も通ったことがない新しい道かも知れませんが、主が進むべき道を示し、知らせてくださいます。

二つ目は、主が共にいることを知るためです。御業は不思議に見えるものですが、御業自体に捕らわれるのではなく、そのような不思議な御業を行われる主が共にいてくださり、それによって皆の信頼を得られることを覚えたいものです。これは1:5bで約束されたことの具体的な展開です。

三つ目は、生ける神があなたがたの中におられ、敵をあなたがたの前から必ず追い払ってくださることを知るためです。今回のしるしと神が敵を追い払われることとどのように繋がるのでしょうか。これから進んで行くカナンの地には10節に書かれている様々な先住の異邦人が沢山います。

それは15節aに書かれている、水が岸まで満ちているヨルダン川の流れのようです。満水のヨルダン川を渡ることが難しいように、先住民を追い払うのは難しいように思われます。しかし1:3で主が約束されたように、イスラエルの足の裏が踏む所は、主が与えてくださいます。

今回、足の裏がヨルダン川の水につかるや、川の水がせき止められ、一つの堰ができることを経験することによって、同じように、足の裏がカナンの地を踏む時に、ヨルダン川の水がせき止められたように、神が先住民を追い払ってくださると知ることになります。このような神の御業の体験を積み重ねて行くことは神へ信頼する信仰を強めてゆきます。

主の契約の箱を担いだ祭司たちが、干上がったヨルダン川の真ん中に立ち続けている間、イスラエルのすべての人々は干上がったところを渡り、ついにすべての民がヨルダン川を渡り終え、エリコに向かいます。エリコの人たちは2:10、11で、40年前に主がイスラエルのために葦の海の水を干上がらせたことを聞いて既にその心は挫けています。今回の御業を聞いて更に恐れることでしょう。

御業を聞いて恐れることは、ある意味で正しい反応です。聖書には多くの御業が書かれています。その最大のものは主イエスの十字架の死と復活です。十字架の死と復活でも大切なのは、そのようなことが起こり得たかどうかではありません。その御業は私たちを救い、今日の3つのことを知るためのものです。聖霊の導きの中で、私たちために十字架につかれ、復活された主イエスを深く知り、信じて主と共に歩む者とさせていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主は、主の契約の箱は進むべき道を知るため、御業は主があなたと共にいることを皆が知るためであり、あなたがたの中におられ、敵を必ず追い払ってくださることを知るためと言われます。聖霊によって主イエスの十字架と復活の御業を信じ、恵みに生きるものとさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。