「主を知り、畏れるため」
2026年7月5日礼拝式説教
ヨシュア記 4章1~24節
主の御名を賛美します。旅行等に行きますとお土産を買うことがあります。食べ物の他に記念として置物等を買うことが以前はあったと思います。昔は定番だったペナントは最近は余り見かけなくなった気がします。ただそこに行ったという記念でも良いと思います。しかし、何のために行ったのか、行った人がどのような状況、状態で行ったのか、例えば卒業旅行等でその時の気持ちを思い出すための記念は大切だと思います。ただそのような物は終活として整理している人の方が多いでしょうか。
1、十二の石を立てる
前回の終わりの3:17でイスラエルのすべての人々がヨルダン川を渡り終えました。そのとき、主がヨシュアに命令された内容とそれを実行した内容が4章に記されています。命令の内容が2~7節で、実行の内容が8~24節です。5~7節はヨシュアが命令した内容ですが、元は主がヨシュアに命令したものと思われます。
命令と実行は同じ内容ですので、合わせてセットでお話します。一つ目は、部族ごとに一人ずつ、十二人を選び出すことですが、これはかねて3:12で決めておいた十二人を呼びました。二つ目は、その十二人への命令です。
主がヨシュアに命じられた3節とヨシュアが十二人に命じた5節の内容を合わせますと、「あなたがたの神、主の箱の前まで、ヨルダン川の真ん中で祭司たちが足を止めて立っていた場所へ行き、イスラエルの部族の数に従って、一人一つずつ石を肩に担いで持って来て、今夜あなたがたが夜を過ごす場所に据えなさい」です。
これは几帳面な日本的な時間感覚からしますと少し不思議な感じがします。ヨルダン川の真ん中から石を持って来るのでしたら、川を渡り終えたときではなく、川を渡る前に言った方が良いと思うからです。ヨルダン川のエリコ付近の川幅は満水でも百メートル位と思われ、一度渡った後に戻るとしても大したことではありません。
しかしこの後も時間的な順序からしますと、何度も行ったり来たりする感じがしますが必ずしも順番通りではないようです。それは一つの出来事を色々な角度から見て書いているようです。時間的な順序はあまり拘る内容ではないようです。ただより不思議なことは二つ目の命令の実行内容です。
石を据えることの実行は、8節bで、「夜を過ごす場所まで持って来て、そこに据えた」とあります。そして19、20節で、「エリコの東にあるギルガルに十二の石を立てた」とあります。これは同じ内容で納得出来ます。「ギルガル」は「円、輪」の意味で、石は円形に並べられたと思われます。
問題は9節です。9節の文章の通りですと、川の真ん中にも十二の石を立てたような感じがします。しかしそうですと、川の水が戻ると石は水の中に入ってしまい、「それは今日に至るまでそこにある」ことが見えるのでしょうか。これには二つの考えがあり、一つは文字通りに川の中に立てられていると考えるものです。
これは更に二つの考えがありまして、一つは川の真ん中に立てられているというもので、もう一つは、真ん中は必ずしも川の両岸からの真ん中ではなく、どちらかの岸寄りに立てられていて両岸から見えるというものです。しかしこれらの考えの問題は、そうしますと石は十二ではなく、ギルガルと合わせると二十四の石を立てたことになります。
二つ目の考えは、新改訳は9節の文章を、「これらの十二の石はヨルダン川の真ん中で、契約の箱を担いだ祭司たちが足をとどめた場所にあったもので、ヨシュアがそれらを積み上げたのである」と読むものです。こちらの方が3節の命令の内容に合っていて、全体的に調和が取れる感じではします。
2、主を知り、畏れるため
三つ目の命令は、将来、子どもたちが父親に、「これらの石は何ですか」と尋ねるときの答えについてです。子どもたちが自然にそのような興味を持つような工夫は大切です。6~8節では、ヨルダン川の水がせき止められたことを2回言って強調し、石の目的は記念のしるしとなるためと言います。
22~24節は同じ内容ですが、こちらは、ヨルダン川を渡ったことと水が涸れたことを2回づつ言って強調し、「石は、地のすべての民が主の手の力強さを知るためであり、またあなたがたが常に、あなたがたの神、主を畏れるためである」と言います。
世の中には色々なことが起こります。しかし時間と共に人々の記憶は薄れて行きます。聖書では色々な出来事の記念のしるしとして石を立てることが多く書かれています。それは単に、このような出来事があったという記念だけではありません。
そもそも「記念」は、「念」(今の心、思い)を「記す」ことです。十二の石はヨルダン川の真ん中の川底から持って来られた物です。それは主の手の力強さを知るためであり、常に主を畏れるためです。
聖書に限らず、多くの国々で記念碑が立てられていますし、この辺りでも色々な記念碑を見かけます。これまでも記念碑などを見てはいましたが、これからはそこに込められている思いを巡らしながら見たいと思います。
これまでの文章の構造を見ますと、次のような中心構造になっています。
A 石を取って立てる命令(2~6a節)
B 子どもの質問に答える命令(6b、7節)
C 石を立てることを実行 (8、9節)
C‘石を立てることを実行 (19、20節)
B‘ 子どもの質問に答える命令(22、23節)
A‘ 石を立てる目的(24節)
3、ヨシュアを大いなる者とする
これまでの内容は中心構造から考えますと、外側の内容ですので、その間に挟まれる10~18節により大切な内容があると考えられます。まず、すべてが完了するまで、箱を担いだ祭司たちはヨルダン川の真ん中に立っていました(10節)。
ヨルダン川の水をせき止めているのは箱に臨在される主だからです。それで、民は急いで渡り、すべての民が渡り終わってから、主の箱が渡りました(11a節)。11b~13節はイスラエルの並びかたで、先頭は主の箱を担ぐ祭司たちで、これは主が先頭に立つことを意味します。
次にルベンの一族とガドの一族、およびマナセ族の半数で、約四万人の武装した軍勢で、その後にイスラエルの人々が続きます。
これと対称となる内容は、15~18節です。証しの箱を担いだ祭司たちをヨルダン川から上がらせ、彼らの足の裏が乾いた土を踏んだとき、ヨルダン川の水は元に戻りました。それは水をせき止めていたのは証しの箱ということです。上の中心構造が更に深められました。
D 主の秩序による進行により水をせき止める(10~13節)
D‘ 箱をヨルダン川から上がらせると水は元に戻った(15~18節)
この間の中心はどのような内容でしょうか。その日、主はイスラエルのすべての人々の前でヨシュアを大いなる者とされました。これは3:7bで約束された通りです。どのように大いなる者とされたのかと言いますと、3:7cで、「主がモーセと共にいたように、ヨシュアと共にいることを、イスラエルの人々が知る」ことによってです。
それはヨシュアが主の命令による神の秩序にきちんと従って、11b、12節のように、主の箱を先頭にしたからです。それにより川の水はせき止められ、イスラエルの人々は主を畏れます。14節は14章の中心の内容です。
E ヨシュアが大いなる者とされ畏れ敬われる(14節)
14章の結論である、ヨルダン川がせき止められたことは、主の大きな御業です。そしてその記念のしるしの石は、主の手の力強さを知るためであり、常に主を畏れるためです。その主を畏れるイスラエルの畏れは、具体的にどのような行動になって現れるのでしょうか。
それは中心構造である14章の真ん中の、主が定められた秩序に従い、主が選ばれ、共におられるモーセを畏れ敬ったように、生涯を通じてヨシュアを畏れ敬うことになります。主を畏れると言いながら、主が定められた秩序に従わないということは有り得ません。
主に選ばれリーダーとして立てられたヨシュアも、主の命令に従って、主の契約の箱を担ぐ祭司を先頭に立てました。それによりヨルダン川がせき止められる御業が起こり、すべてを指導したヨシュアは、主が共におられる者とすべての人々に知れ渡り、畏れ敬われ、大いなる者とされました。
イスラエルがヨルダン川を渡った第一の月の十日は、40年前に、イスラエルが罪の象徴である奴隷の地エジプトを脱出するために過越しの小羊を用意した日です(出エ12:3)。主イエス・キリストは私たちの救いのために過越しの小羊として十字架につかれました。クリスチャンにとって救いの記念のしるしは十字架です。
十字架は主の手の力強さを知るためであり、主を畏れるためです。聖霊により主を知り、畏れ、主にある秩序に従って、大いなる者として歩ませていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。イスラエルは主によりせき止められたヨルダン川を渡りました。これは主の手の力強さを知るためであり、主を畏れるためです。ヨルダン渡河よりも大きな主イエスの十字架の御業を正しく知り、主を畏れ、祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
